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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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告げるべきか

 書斎の蝋燭が揺れている。蝋の焦げる匂いが鼻を刺し、壁に映る影が不規則に伸び縮みしていた。


 三本あった蝋燭のうちの一本、一本はとうに燃え尽きていた。残り二本の芯が傾ぎ、蝋の涙が燭台に垂れている。壁に映る影が大きく揺れ、書棚に並ぶ背表紙が明滅した。


 カインは暗い机の上に広げた文献を見下ろしていた。


 この羊皮紙は古く、端が茶色く焼けている。数百年前の教会の内部記録——聖女の適性者に関する調査報告書。正規の文献庫には存在しない。教会が歴史の闇に葬り、焼却を命じたはずの記録だ。しかし命令を実行した修道士が密かに写しを残していた。それを、カインが五百年の歳月をかけて手に入れた。


 文面は淡々としている。数字と記述の羅列。聖女の覚醒日時、適性発現までの期間、結界出力の推移——冷たい事実の連なりだ。しかしその行間に、幾人もの命が燃えた痕跡がある。二十二の数字の裏に、二十二人の名前があった。二十二の人生があった。


 第七代聖女が命尽きた後、次の適性者が発現するまでに三年を要した。第十二代では五年。第十八代では八年。間隔は代を重ねるごとに長くなっている。聖なる炉の出力は五百年の稼働で劣化し、適性者の発現に必要なエネルギーが枯渇しつつある。


 第二十二代が命を落としたのは、リーリエが十五歳のときだった。その死から数ヶ月後に——リーリエの左胸に紋章が浮かんだ。第二十三代聖女の誕生。歴代最年少の覚醒だった。


 そして——リーリエ以降、適性者の兆候は観測されていない。


 カインはその事実を、リーリエを崖で拾ったときから知っていた。教会よりも早く、世界の誰よりも早く。五百年の蓄積が導き出した結論だった。適性者の発現間隔が加速度的に長くなっていること。聖なる炉の構造そのものに不可逆的な劣化が生じていること。炉が次の適性者を生み出す力を、もう持っていないこと。全てが一つの結論を指していた。


 リーリエが——最後の聖女だ。


 文献を閉じた。羊皮紙の表紙に手を置いたまま、長い沈黙が書斎を満たす。蝋燭の芯が小さく爆ぜた。蝋が溶けて流れ、燭台の縁を伝い、机の上に白い滴を落とす。


 告げるべきか。


 この事実をリーリエに告げることの意味を、カインは痛いほど理解していた。


 リーリエにはまだ——「死ねば楽になれる」という逃げ場がある。終わらない苦痛に耐え続ける日々の中で、唯一残された出口。もう嫌だと思ったとき、全てを手放せるという最後の砦。それは決して健全な希望ではない。けれど希望であることに変わりはなかった。暗闇の底にも出口はある。そう信じられるからこそ、人は闇の中を歩いていける。


 その出口を——塞ぐのか。


 お前が死ねば、次の聖女は生まれない。炉の火は消え、結界は崩壊し、世界が終わる。死は解放ではなく、破滅の引き金だ。——その真実を告げれば、リーリエの最後の希望は消える。生きても苦痛。死んでも世界を道連れにする。行き場のない檻の中に——あの子を閉じ込めることになる。


 カインは椅子の背に身体を預け、天井を仰いだ。石造りの天井に蝋燭の影が揺れている。


 あの子の顔が浮かんだ。銀灰色の髪。薄い青紫の瞳。凍結した感情の奥に、最近ようやく灯り始めた微かな光。花茶を「好きです」と言ったあの朝。リュカの冗談に目を細めた午後。庭のエーデルフラウの花弁を掌に受けて、「まだ手放したくない」と呟いた夕暮れ。煮込み料理を「楽しみです」と言って、リュカを泣きそうにさせた夜。


 あの小さな変化の一つ一つが——カインにとっては、五百年で初めて見る奇跡だった。


 その奇跡を——壊すのか。


 目を閉じた。瞼の裏に、カインの深紅の瞳が浮かんだ。


 脳裏に、別の顔が浮かんだ。銀色の髪ではない。金色の——もう色褪せた記憶の中の、あの人。五百年前の聖女。初代。カインがかつて守ると誓い、守れなかった人。


 あのときも——俺は隠した。


 炉の構造を知っていた。聖女が燃料として消費される仕組みを解析し終えていた。しかし彼女には告げなかった。知らせないことが守ることだと、信じていた。真実を知れば彼女が苦しむ。ならば知らせないほうがいい。俺が全てを解決すればいい。彼女は何も知らず、笑っていればいい。


 それが——あの頃の俺の「優しさ」だった。


 結果、彼女は何も知らないまま死んだ。選択肢を与えられないまま。自分の命がどう使われるかを知らされないまま。笑って、祈って、カインに手を振って——そして炉の炎に呑まれた。カインの手は空を掴み、叫びは炉の轟音にかき消され、何も残らなかった。金色の髪が炎に巻かれる瞬間を、五百年経った今も夢に見る。


 カインの拳が、机の上で握りしめられた。


 あれは優しさではなかった。臆病だった。真実を告げて彼女が泣く姿を見たくなかった。彼女の笑顔を壊したくなかった。自分が傷つきたくなかっただけだ。その臆病が——彼女から選択肢を奪った。


 同じ過ちを——繰り返すのか。


 目を開けた。


 窓辺に歩み寄り、夜の闇を見つめた。冬の星空が広がっている。フェアシュテルンの五つの星が弧を描いて輝いていた。あの星をリーリエに教えた夜を思い出す。「冬の女王は孤独だが、五つの星に囲まれている。一人じゃない」——リーリエは何も言わなかった。けれど星を見上げる横顔に、ほんの僅かな——光があった。


 教会の軍勢が迫っている。次に来るのは偵察ではない。本格的な侵攻だ。リーリエが何も知らないまま、判断を迫られる日が来る。


 守るために隠すのか。尊重するために伝えるのか。


 同じ分岐に、五百年前にも立った。あのとき俺は隠すほうを選んだ。


 蝋燭の炎がもう一本、音もなく消えた。書斎が暗くなる。最後の一本が、カインの横顔を鋭く照らしている。


 告げなければならない。


 決意は固まりきってはいない。しかし——傾き始めている。五百年前の後悔が、背中を押していた。


 リーリエを一人の人間として尊重するために。たとえそれが、彼女の最後の希望を奪うことになるとしても。


 最後の蝋燭が、短くなっていく。蝋の涙が燭台を伝い、机の上に小さな池を作っている。炎が揺れるたびに、書斎の影が生き物のように蠢く。


 五百年前の夜を思い出す。あのときも蝋燭が燃え尽きかけていた。あのときも、決断を迫られていた。あのときは——間に合わなかった。


 今度は間に合わせる。間に合わせなければならない。たとえリーリエの最後の希望を奪うことになっても。嘘をつき続けることは——リーリエを一人の人間として尊重していないことと同じだ。


 カインは深い闇の中で、長い時間、身じろぎもせず動かなかった。やがて——最後の蝋燭が燃え尽きた。書斎が完全な暗闇に包まれた。


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