迫る影
朝。
ヴェルナーの報告は、短かった。短い報告は、深刻な報告だ。長々と説明する余裕がないということだから。
「教会の軍勢が魔王領の周辺に配置され始めました。南方から三百、西方から二百。さらに北方からも部隊が移動中との情報があります。合計で千を超えるでしょう」
執務室にカインとヴェルナー、リュカがいた。三人の表情は険しい。朝の光が窓から差し込んでいるが、部屋の空気は重かった。
「まだ領内には入っていないのか」
「はい。境界線の外で待機しています。包囲態勢の構築中と見るのが妥当です。退路を断ってから、降伏を迫るでしょう。応じなければ——」
「攻めてくる」
「はい」
「来るか」
カインが低く呟いた。五百年の経験が告げている。教会は交渉で済ませる気はない。軍を動かした以上、使う気でいる。降伏勧告は形式だ。最初から力で取りに来るつもりだ。
「時間の問題っすね」
リュカが壁にもたれて言った。いつもの軽い口調だが、目は笑っていない。腰に短剣を差している。普段は持ち歩かない武器を、昨日から身につけている。
「旦那様。方針は」
「迎え撃つ。逃げる場所はない。逃げたところで、リーリエを連れている限り追われ続ける。ここで——守りきる」
「承知しました。防衛計画を最終確認します。結界の二重構造を三重に強化できないか、検討してみましょう」
ヴェルナーが去った。リュカもそれに続く。扉の前で振り返り、「旦那様、飯はちゃんと食ってくださいね。昨日の夕飯、半分残してたっしょ」と言って消えた。
カインは一人、窓の外を見た。
空は晴れている。皮肉なほどに。雲一つない青空だ。嵐が来る日にこそ、空は澄み渡る。五百年前もそうだった。初代聖女が炉に身を投じた日も——空は、こんなふうに青かった。
——午後、リーリエがカインのもとに来た。
執務室の扉を叩き、入ってくる。銀灰色の髪が揺れ、薄い青紫の瞳が真っ直ぐにカインを見ている。手には何も持っていない。花茶のカップも、古文書も、名簿も。何も持たずに——ただ、カインに会いに来た。
いつもと——何かが違った。
目に光があった。虚ろではない。迷いはある。怯えもある。けれどその奥に——意志がある。氷の下に灯る炎のような、静かな意志。
「カインさま」
「……何だ」
「報告を聞きました。教会の軍が——来るのですね」
「ああ。もう動いている」
「そうですか」
リーリエが一歩、近づいた。いつもは部屋の隅に座るリーリエが、今日は机の前まで歩み寄ってきた。カインの目の前に。
「カインさん」
カインが——息を止めた。
「さん」だ。「さま」ではなく。
リーリエがカインを名前で呼んだのは——これが初めてではない。けれど「カインさん」と呼んだのは、初めてだった。
敬意が消えたのではない。距離が——変わったのだ。「さま」は仰ぎ見る距離。「さん」は隣に立つ距離。リーリエが、一歩、カインに近づいた。
「……何だ」
声が掠れた。自分でも気づかないほど微かに。けれどヴェルナーがいたら見抜いただろう。幸い、部屋には二人しかいない。
リーリエが目を伏せた。まつげの影が頬に落ちる。それから——もう一度、顔を上げた。薄い青紫の瞳に、決意の光がある。
「私は……ここにいます」
声は小さかった。けれど——明確だった。曖昧さのない、はっきりとした宣言だった。
「教会に戻りません。ここにいます」
カインは黙っていた。
「門の前で——止めていただきました。マリカさんに——ここにいてくださいと言われました。従者の皆さんに——家族だと言われました。壁画に——もう一つの炎がありました。夢で——方法があると聞きました」
リーリエの声が、僅かに震えていた。けれど一語一語を、噛みしめるように言葉にしている。自分の中にある理由を、一つずつ確認するように。
「全部が——ここにいる理由です。一つだけじゃない。たくさんの理由が、ここにある」
リーリエが一呼吸置いた。
「だから——まだ、諦めません。教会には戻りません。ここにいます。あなたの——ここに」
「あなたの」。
カインの胸の奥で、何かが軋んだ。前に自分が言いかけた言葉——「お前は俺の——」。あの言葉の続きを、リーリエが逆向きから言っている。カインが言えなかった言葉の答えを、リーリエが先に差し出している。
「……ここにいます」
リーリエがもう一度、繰り返した。確認するように。自分自身に言い聞かせるように。「戻りたくない」ではなく、「ここにいます」。受動ではなく能動。逃避ではなく選択。
カインは——立ち上がった。
リーリエの前に歩み寄り、見下ろした。深紅の瞳が、薄い青紫の瞳を捉えている。近い。手を伸ばせば触れる距離。
「ああ」
一言だった。
「いろ」
もう一言。
たった二語。けれどその二語に、カインの全てが込められていた。守る。手放さない。ここに——お前の場所がある。五百年間、誰にも言えなかった言葉の代わりに、たった二語で。
リーリエの目が——潤んだ。涙は流れなかった。けれど、確かに潤んでいた。薄い青紫の瞳に、水の膜が張った。光がにじんだ。
二人は暫く、見つめ合っていた。窓から差し込む午後の光が、二つの影を床の上に並べている。長い影と短い影。それが——微かに重なっている。
扉の外から、ヴェルナーの足音がした。報告のために来たのだろう。しかし足音は扉の前で止まり——そのまま、遠ざかっていった。空気を読んだのだ。五十年仕えた男は、主人の大切な時間を侵さない。
窓の外には、教会の軍勢が迫っている。結界は弱まり続け、時間は残されていない。壁画の謎はまだ解けず、夢の声は断片的なままだ。敵は千を超え、味方は二十人と魔王一人。勝算は——冷静に考えれば、薄い。
けれど——リーリエは「ここにいる」と言った。
かつて芽生えた「戻りたくない」が、ここに来て「ここにいます」に変わった。消極的な拒否から、能動的な選択に。逃避から、意志に。
それだけで——十分だった。
嵐が近づいている。空は澄み渡り、鳥が高く飛んでいる。
リーリエは窓の外を見て——小さく息を吐いた。
「……明日、何があっても」
「ああ」
「ここにいます」
「わかった」
カインの声は——いつもより、柔らかかった。ほんの少しだけ。微かに。本人は気づいていないだろう。けれどリーリエは——聞き逃さなかった。聞き逃さなかったが、何も言わなかった。
夕日が沈んでいく。魔王領の上に、長い影が伸びている。教会の軍勢の影。けれど城の中には——灯火が灯っていた。従者たちの笑い声が聞こえる。マリカの料理の匂いが漂っている。フィルが庭で何かを叫んでいる。リュカの「危ないっすよフィルー!」という声。
ここが——リーリエの場所だ。
まだ終わっていない。




