夜の密談
従者たちが寝静まった後、カインとヴェルナーは執務室にいた。蝋燭の灯りだけが机の周囲を照らし、窓の外には冬の月が高く昇っている。石壁を通して冷気が忍び込み、吐く息が微かに白い。城の中は静かだ。先程の広間の温かさが嘘のように、夜の沈黙が城を包んでいる。
灯火を絞った薄暗い部屋で、二人の男が向かい合っている。机の上には地図と書類が散らばり、茶が冷めかけている。広間での団結の温かさとは対照的に、この部屋の空気は冷徹だった。戦略を練るのに感情は邪魔になる。
「率直に言う。このまま籠城は長くは持たない」
ヴェルナーの声は、先程の広間での説明とは違っていた。冷徹な分析者の声だ。従者たちの前では希望を語ったが、カインの前では事実を語る。この使い分けが、ヴェルナーの有能さの証だ。
「教会の軍勢は千二百を超える見込みです。旦那様の力があれば撃退は可能ですが、問題は持続性です。一度の戦闘で撃退しても、教会は二度目、三度目を送ってきます」
「わかっている。俺が前線に出れば城の防衛が手薄になる。俺が城にいれば前線が崩れる。どちらも不完全だ」
「加えて、結界の穴が今後も開く可能性があります。今日のような事態が繰り返されれば、教会の軍と魔物の二正面作戦は——物理的に不可能です。我々の戦力では足りない」
カインが茶を啜った。冷めた茶が喉を通る。苦い。
「力でねじ伏せるだけでは駄目だ」
「左様です。教会を一度退けても、また来ます。世論が教会側にある限り、何度でも。大義名分がある限り、兵は集まります。軍事的な勝利は一時的な猶予にしかならない」
「政治的な解決策が必要だ」
カインが地図の上に指を置いた。教会の聖都、各国の首都、主要な交易路。五百年の知識が、脳内に地図を描いている。
「世界の人々に真実を知らせる方法はないか。聖女制度の実態を——教会が聖女を殺し続けてきた事実を、公に暴く方法。名簿がある。歴代聖女が全員二十代で死んでいるという事実がある。消された頁がある」
「困難です。教会が情報を支配しています。民衆は教会の言葉を信じます。仮に真実を告げたとしても、『魔王の嘘だ』と一蹴されるでしょう。五百年間、『魔王は人類の敵』と教えられてきた民衆が、魔王の言葉を信じる理由がありません」
「名簿を公表すれば」
「名簿の出所が魔王城である以上、『偽造だ』と言われます。証拠の信頼性は、誰が提示するかに依存します。魔王が提示した証拠は——どれだけ正確でも、信じてもらえません」
カインが額に手を当てた。理屈ではわかる。わかるが——もどかしい。
「内部からの告発は」
ヴェルナーが眼鏡を光らせた。
「聖騎士団の中に——教会に疑問を持つ者がいれば、可能性はあります。教会の内部から声を上げる者がいれば、証拠の信頼性は跳ね上がります」
「聖騎士団長。レオンハルトといったか」
「はい。若いですが実力は本物です。正義感が強いとの情報もあります。聖騎士としての誇りが高く、不正を許さない気質だと。ただし——」
「教会に忠誠を誓っている」
「今のところは。しかし正義感の強い人間は、真実を知ったときに最も大きく揺れます。忠誠の土台が『教会は正しい』という信念である以上、その信念が揺らげば——忠誠も揺らぐ」
カインが腕を組んだ。五百年前の自分を思い出していた。教会に忠誠を誓い、聖女を守ると誓い——そして教会に裏切られた。信じていたものが崩れたとき、人間は最も大きく変わる。
「聖騎士団長に接触する手段を探れ。いきなり寝返らせるのは無理だが、種を蒔くことはできるかもしれない。真実を——ほんの一片でも見せることができれば」
「承知しました。東部の諸侯にも打診してみます。教会に従属していない勢力は僅かですが、存在します。そちらにも糸を伸ばしておきましょう」
ヴェルナーが書類をまとめながら、ふと——口調を変えた。参謀の声から、個人の声に。
「旦那様」
「何だ」
「リーリエ様のために、ずいぶんと熱心ですね」
カインの手が止まった。茶のカップを持ち上げかけたまま、動かない。蝋燭の光がカップの縁に小さな反射を落とし、茶の水面が微かに波立っていた。
「当たり前だ。あいつを守ると決めた」
「五百年前から、でしょうか」
「……何が言いたい」
「五百年前は——初代聖女のために動いていました。今は、リーリエ様のために動いている。同じ動機ですか」
カインの深紅の瞳が、ヴェルナーを射抜いた。睨んでいるわけではない。答えを探しているのだ。自分の中に。
「贖罪だ。初代聖女を救えなかった。同じ過ちを繰り返さない。それだけだ」
「それだけですか」
ヴェルナーの声は穏やかだった。挑発ではない。ただ、問うている。五十年間仕えてきた主人の変化を——確認している。
カインは答えなかった。目を逸らした。窓の外を見た。夜空に月が出ている。冷たい光が地図の上に落ちている。
「……今の問いは、戦略に関係あるのか」
「ありません。ただの私見です。ただ——旦那様の動機が何であれ、城の全員がリーリエ様を守ると決めています。それだけは、確かです」
「なら黙っていろ」
「失礼しました」
ヴェルナーが一礼して退出した。扉が閉まる直前に、カインは背中に声をかけた。
「ヴェルナー」
「はい」
「……余計なことを考える暇があったら、聖騎士団長の情報を集めろ」
「承知しました。おやすみなさいませ」
扉が閉まった。
カインは一人、執務室に残った。月明かりが机の上を照らしている。地図の上に、自分の影が落ちている。
「贖罪だ」
口の中で呟いた。
贖罪。五百年間、そう信じてきた。初代聖女を救えなかった罪を償うために、次の聖女を守る。それが動機だ。それ以外にはない。
——はずだ。
リーリエの顔が浮かんだ。薄い青紫の瞳。銀灰色の髪。門の前で座り込んでいた姿。「止めてくれる人がいるのですね」と言った声。壁画の前で「先輩」と呼んだ横顔。今日、「行きません」と自分の意志で言った声。
カインは額を手で覆った。
「……それだけだ」
誰に言い訳しているのか——自分でもわからなかった。
窓の外で風が鳴った。冬の深い夜。明日の朝にはまたリーリエに茶を淹れる。施術で手を握る。いつもの日常を。しかしその日常の裏で、戦の足音が近づいている。カインの中で、二つの時間が並行している。リーリエとの穏やかな時間と、教会との避けられない衝突までの時間。
ヴェルナーが書類をまとめ、一礼して退室した。
カインは一人、冷めきった茶を見つめていた。茶の表面に、蝋燭の炎が映っている。揺れている。何もかもが——揺れている。




