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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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結界の穴

 結界に穴が開いたのは、昼過ぎだった。冬の陽光が薄く書庫を照らし、暖炉の火が静かに燃えていた。穏やかな午後のはずだった。


 リーリエは書庫で古文書を読んでいた。壁画のもう一つの炎に関する手がかりを探して、初代聖女の時代の文献を一冊ずつ確認している最中だった。ヴェルナーが選別した候補の中から、古代語で書かれた断片的な記録を読み解いていく。教会で叩き込まれた古代語の知識が、ここに来て役に立っている。


 左胸の紋章が——痛んだ。


「っ——」


 鈍い痛みが胸を走り、リーリエは古文書を取り落とした。紋章が微かに発光している。白銀の光が衣服を透かして漏れ出す。普段の微かな温もりとは違う——鋭い、裂けるような痛み。


 結界が——裂けている。


 リーリエには感覚でわかった。聖女として結界と繋がっている身体が、世界のどこかで結界が破れたことを察知していた。遠い場所ではない。近い。この領の——すぐ近くだ。


 城の鐘が鳴った。警報の鐘。甲高い連打が城内に響き渡る。平穏な午後が、一瞬で緊張に塗り替えられた。


「結界に亀裂! 南西の境界、三百歩地点!」


 ヴェルナーの声が廊下に響いた。冷静だが鋭い声。有事のヴェルナーは、普段とは別人のように機敏になる。


 リーリエは書庫を飛び出した。窓に駆け寄り、南西の方角を見る。


 森の向こうに——黒い霧が立ち上っていた。結界の裂け目から滲み出す瘴気。暗紫色の霧が地面を這い、木々の枝が黒く変色していく。その中から、異形の影が這い出してくる。


 魔物だ。


 大きさは牛ほどもある。黒い甲殻に覆われた体躯、赤く光る複数の目、鋭い牙。結界の外側——災厄の領域に棲む生物が、弱まった結界の隙間から侵入してきた。一体、二体——三体目が霧の中から頭を出した。


「従者隊、迎撃態勢!」


 ヴェルナーが指揮を執っている。城門が開き、従者たちが飛び出していった。リュカの姿も見えた。短剣を手に、軽やかに走っていく。「よっしゃ、久しぶりの運動っすね!」という声が聞こえたが、目は笑っていなかった。


 リーリエは窓にしがみついて見ていた。爪が窓枠に食い込んでいる。


 従者たちが魔物に斬りかかる。剣が甲殻を弾き、魔法の光が闇を裂く。硬い。甲殻が硬い。通常の武器では貫通できない。魔物は二体を従者たちが囲んでいるが、決定打が出ない。リュカが魔物の背後に回り込み、甲殻の隙間を狙って短剣を突き立てた。魔物が悲鳴を上げ、暴れる。


 三体目が——森の奥から全力で突進してきた。


 従者たちの隊列を突破し、城に向かって一直線に走っている。赤い目がリーリエのいる窓を見上げた——聖女の紋章の光に、反応したのだ。魔物は聖女の力に引き寄せられる。蛾が灯火に集まるように。


 黒い影が、魔物の前に立った。


 カインだった。


 剣を抜いてすらいなかった。右手を一振りしただけで、漆黒の魔力が刃のように放たれ、魔物の甲殻を両断した。ヴェルナーたちが苦戦していた甲殻を、紙を裂くように。魔物が悲鳴を上げる間もなく、二撃目が頭部を粉砕した。黒い体躯が地面に崩れ、瘴気となって消えていく。


 あっけなく。圧倒的に。


 残る二体も、カインが近づいただけで動きを止めた。恐怖だろうか。五百年を生きた存在の威圧に、獣の本能が屈している。カインが魔力を放ち、二体同時に塵に還した。


 戦闘は、五分で終わった。


 リーリエは窓から離れ、城の出口に向かった。階段を駆け下りる途中で、マリカとすれ違った。


「リーリエ様、外は危険です!」


 リーリエの額に汗が浮いていた。息が荒い。紋章が微かに光り、衣服の上からでもその明滅がわかった。


「大丈夫です。もう終わりました」


 城の前庭に出ると、カインが従者たちに指示を出していた。怪我人の確認、結界の穴の応急処置、周辺の警戒。黒い外套が風になびいている。手の甲に魔物の瘴気が付着していたが、カイン自身は傷一つない。


 カインがリーリエに気づいた。


「怪我はないか」


 真っ先に聞いたのが、それだった。世界の結界に穴が開き、魔物が侵入し、戦闘があったというのに——最初に確認したのは、リーリエの安全。いつも、そうだ。この人は、いつも。


「ありません。……カインさまこそ」


「俺は平気だ。あの程度で傷つく身体じゃない」


 リーリエは前庭に散らばる魔物の残骸を見た。黒い甲殻の破片と、消えかけた瘴気。結界の裂け目から侵入したもの。あの異形の生物が、結界の外には無数にいるのだ。結界がなければ——世界は、あの生物に呑み込まれる。


「私が戻れば——」


 言葉が口をついた。反射的に。身体に刻まれた教会の論理が、危機を感知すると自動的に起動する。


 けれど——途中で止めた。自分で。


 カインの言葉が蘇る。「お前が犠牲になる必要はない」。門の前で聞いた声。深紅の瞳の決意。壁画のもう一つの炎。夢の中の声。「一人じゃなく」。


 一人で全てを背負う必要はない。別の方法があるかもしれない。


 リーリエは息を吸い、吐いた。冷たい空気が肺を満たし、熱い空気が出ていく。


「……行きません」


 カインが振り返った。


「今、何と言った」


「行きません。教会には——戻りません」


 リーリエの声は震えていた。けれど——確かだった。前回、門の前で座り込んでいたときとは違う。あのときは足が動かなかっただけだ。身体が拒否しただけだ。けれど今は——自分の意志で、止まっている。


「怖いです。人が苦しんでいるのは——怖いです。私のせいかもしれないと思うと——苦しいです。でも」


 リーリエは前庭の瓦礫を見つめた。


「もう一つの炎があるかもしれない。別の方法があるかもしれない。だから——まだ、行きません」


 カインは暫く黙っていた。それからリーリエの頭に——また、手を置いた。


「ああ。行くな」


 大きな手だった。温かい手。五百年の孤独を耐えてきた手が、リーリエの髪に触れている。銀灰色の髪を、指先が撫でた。


 リーリエは——泣かなかった。けれど目を閉じて、その温かさを受け入れた。


 結界の穴は、ヴェルナーの応急処置で塞がれた。一時的なものだ。根本的な解決にはならない。穴はまた開く。次はもっと大きいかもしれない。


 時間は——残されていない。けれど今日、リーリエは自分の足で踏みとどまった。門の前ではなく——カインの隣で。


 小さな成長だった。けれど確かな一歩だった。


 夜、自室のベッドに座り、リーリエは自分の手を見つめた。この手で——何ができるだろう。戦う力はない。結界を修復する技術もない。けれど「戻りたくない」と思う意志がある。「ここにいる」と選ぶ意志がある。それは——力ではないだろうか。小さな、けれど確かな力ではないだろうか。


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