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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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包囲の始まり

 大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンは、窓の外を見ていた。執務室には香の煙が漂い、祭壇から運ばれた白百合の匂いが空気に溶けている。


 聖都の白い尖塔が朝日に照らされ、白い石壁が黄金に輝いている。美しい街だ。教会が千年をかけて築き上げた、信仰の中心。尖塔の先端に輝く金の十字が、朝日を受けて光の柱を描いている。この街を——この世界を守るために、グレゴリウスは三十年間、大司教の座に就いてきた。


 三十年という歳月。その間に三人の聖女を炉に送った。三人の名前を——今でも覚えている。覚えているが、口にはしない。


 扉を叩く音。


「お入りなさい」


 密偵の統括官が入ってきた。灰色の法衣を纏った痩せた男。名はヴォルフ。目つきは鋭いが、挙動に音がない。影のような男だった。教会の暗部を二十年間、統括してきた男。


「大司教猊下。魔王領からの報告です」


「聞きましょう」


「密偵六名を派遣しましたが、四名が捕縛されました。残り二名は領外に脱出。そのうち一名が報告を持ち帰りました」


 グレゴリウスは窓を離れ、執務机に座った。書類を受け取り、目を通す。灰色の瞳が、一行ずつ追っていく。感情は動かない。データを処理しているだけだ。


「聖女は確かにあの城にいるのですね」


「はい。魔王の城の位置は特定できました。魔王領の中心部、山岳地帯の谷間に位置する城塞です。防衛は堅固。結界が二重に張られており、通常の軍勢では突破が困難です」


「魔王カインの戦闘力は」


「推定は困難ですが——単独で一個中隊を壊滅させる力があるとの報告です。五百年の蓄積は伊達ではありません。剣術と魔法の双方に秀で、直接戦闘では人間の兵士では太刀打ちできません」


「聖騎士団の精鋭でも?」


「困難です。聖騎士団長レオンハルトであっても、一対一では勝算は低いでしょう」


 グレゴリウスは書類を閉じた。表情は変わらない。困難を前にしても動じない——それが大司教の務めだ。


「聖女の状態は」


「衰弱の兆候があるようですが、行動は自由にしているとのことです。囚われているというよりは——保護されている、と表現するのが正確でしょう」


「保護」


 グレゴリウスの声に、微かな冷笑が混じった。唇の端が僅かに上がったが、目は笑わなかった。


「魔王が聖女を保護している。奇妙な話です。五百年前に聖女の犠牲を否定して追放された男が、再び聖女を手元に置いている。歴史は繰り返しますか」


 統括官が沈黙する。この男は求められない限り意見を述べない。それが暗部の統括官に求められる資質だ。


 グレゴリウスは立ち上がり、壁に掛けられた大きな地図の前に歩いた。世界地図だ。教会の紋章が地図の中央に押されている。


「聖騎士団の準備は」


「精鋭部隊の編成が完了しています。団長レオンハルト以下、三百名。各国からの援軍も順次到着しており、総勢は千二百名に達する見込みです。装備、兵站、医療班——全て整っています」


「千二百名。魔王一人に対して」


「猊下。魔王は一人ですが、城には魔族の従者が複数います。また、結界が二重に張られているため、力攻めでは被害が甚大になります。千二百でも足りないかもしれません」


 大司教の指が机の縁を叩いた。規則的な音が、沈黙を刻んでいる。


「足りなくとも、やるのです。力攻めで良い。被害は——必要経費です」


 グレゴリウスの声は穏やかだった。穏やかなのに——冷たかった。「被害」を「必要経費」と呼ぶ。兵士の命を、数字として処理する。聖女の命を燃料と呼ぶことと——構造は同じだ。


「包囲計画を進めなさい。まずは魔王領の周囲に軍を展開し、退路を断つ。降伏勧告を出し、応じなければ攻め入る。聖女の回収が最優先。魔王の排除は——可能であれば」


「承知しました」


「各国への連絡は」


「既に協力要請を送付しています。西方三国と北方連合から支持を得ています。東部の諸侯はまだ態度を保留していますが、教会の声明を受けて傾くでしょう。世論は我々の側にあります」


「よろしい。世論が味方なのは重要です。世論が味方であれば、何をしても正義になりますから」


 最後の言葉には、皮肉のような響きがあった。グレゴリウス自身が、自分の言葉の冷たさに気づいているのかどうかは——わからなかった。


 統括官が退出した。


 グレゴリウスは一人になった。


 執務机の引き出しから、古い手帳を取り出した。革の表紙が擦り切れ、頁が黄ばんでいる。三十年前——大司教に就任した日から記し続けている手帳だ。


 頁を開いた。最初の頁に、名前が書かれている。


 第十代聖女——クリスティーネ。在任三年。死亡時年齢二十歳。


 グレゴリウスが大司教として初めて炉に送った聖女の名前だった。二十歳の若い女性。茶色い髪と、大きな目。怯えながらも「世界のために」と頷いた——あの日の顔を、三十年経った今でも覚えている。覚えているが、思い出すことは——禁じている。


 その名前を暫く見つめ——手帳を閉じた。引き出しにしまい、鍵をかけた。鍵の音が、静かな執務室に響いた。


 窓の外に目を戻す。聖都の街並みが広がっている。人々が行き交い、鐘が鳴り、祈りの声が響いている。この世界が——続くために。


「世界のために」


 グレゴリウスは呟いた。


「一人の犠牲で、万人が救われる。それが——最善だ」


 声は穏やかだった。信念は本物だった。自分が正しいと——心から信じている。


 それこそが、最も恐ろしいことだった。


 大司教は窓を閉めた。聖都の喧騒が遮断され、執務室に静寂が満ちる。


 戦の準備は、整いつつある。聖女を——取り戻す。世界を守るために。一人の少女の名前を呼ぶことなく。


 グレゴリウスは机の上の書類に目を落とした。聖騎士団の編成表。各国からの援軍の名簿。補給線の計画。一つ一つが精密に組み立てられている。三十年の経験が作り上げた、完璧な計画。


 しかし机の端に——一枚の紙があった。リーリエの個人記録。名前、出身、覚醒年齢。教会に引き取られた日付。辺境の村の名前。両親の名前。


 グレゴリウスはその紙を裏返しにした。見なくていい。見るべきではない。名前を覚えれば、顔が浮かぶ。顔が浮かべば、情が移る。情が移れば——判断が鈍る。


 先代の聖女のときも、そうだった。名前を覚えてしまった。笑顔を見てしまった。だから——炉に送る日、手が震えた。震える手を、信念で押さえつけた。


 もう、震えはしない。三人分の経験が、手を安定させている。


 机の上の花瓶に、白い花が一輪。誰かが飾ったのだろう。グレゴリウスは花には興味がなかった。けれど——その白い花弁が、聖女の白い聖衣に見えて、一瞬だけ目を逸らした。


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