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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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屋根の上の聖女

 屋根に登ったのは、深夜のことだった。


 眠れなかった。身体の灼熱がいつもより強い夜だった。聖女の力が結界に注ぎ込まれる量は一定ではなく、世界のどこかで結界が薄くなれば、リーリエの身体から引き出される力は増す。今夜は、どこかで結界に異変が起きているのかもしれない。


 痛みに耐えるのは慣れている。けれど眠れない夜は長い。暗い部屋の天井を見つめていると、教会にいた頃と何も変わらない気がしてくる。


 リーリエは窓の柵をすり抜けた。華奢な身体は柵の隙間を通れた。カインたちは想定していなかったのだろう。柵をつければ安心だと思ったのだ。聖女の身体がどれほど細いか、考慮に入れずに。


 壁の突起に手をかけ、屋根に登る。聖女に体力はないが、身体が軽いのは利点だった。石壁の凹凸を手探りで掴み、足場を確認しながら這い上がる。痛みは相変わらずだが、こういうときだけ不思議と身体は動く。


 屋根の上に立つと、風が吹いた。


 高い。城の最上部、尖塔のすぐ下。落ちれば確実に——


 けれど、リーリエの足は止まった。


 空だった。


 夜空が、目の前に広がっていた。


 月のない夜。その代わりに星が溢れていた。教会の狭い窓からは見えなかった空の広さが、屋根の上には全部あった。天頂から地平線まで、銀の砂を撒いたような星々が瞬いている。空気が澄んでいて、吸い込むと肺の奥まで冷たさが沁みた。風が髪を攫い、夜の匂い——草と土と、遠くの森の匂いが混じった空気が頬を撫でていく。


 綺麗だ——とは思わなかった。


 けれど、足が動かなかった。


 しばらくそのまま立ち尽くしていると、背後から気配がした。


「……お前、柵の意味を知っているか」


 カインだった。屋根の縁に手をかけて登ってくる。寝間着のまま、外套だけ羽織っている。深紅の瞳が星明かりに照らされて、暗い赤に光っていた。


「知っています。乗り越えるものです」


「違う」


「すり抜けました」


「それも違う」


 カインはリーリエの隣まで来ると——止めなかった。


 手首を掴むことも、「飛び降りるな」と怒鳴ることもしない。ただリーリエの隣に腰を下ろし、屋根の傾斜に足を踏ん張って座った。


 リーリエは戸惑った。


「……止めないのですか」


「止める。お前が足を踏み出したら、止める」


「では今は」


「今は座っている」


「なぜ」


「ここからの景色は悪くない」


 カインが空を見上げた。深紅の瞳に星の光が映り込んでいる。数百年を生きた男の目に、星空がどう映っているのか。リーリエには想像もつかなかった。


 沈黙が降りた。風が二人の間を通り抜けていく。瓦の上に座る二つの影が、星明かりの下で並んでいる。


 冷たい風のはずだった。屋根の上は吹きさらしで、真夜中の気温は低い。けれどカインの隣は不思議と寒くなかった。カインの身体から微かに温度が伝わってくる——いや、それだけではない。風の流れが、カインの側で微かに変わっている気がする。


 魔力で温めているのだろうか。


 リーリエは聞かなかった。聞けば、カインは「知らん」と言うだろう。


「……死にに来たのですが」


 リーリエは呟いた。自分でもおかしいと思う。屋根の上まで登ってきて、飛び降りるはずが、隣に座った男と星を眺めている。死にに来たのに死んでいない。これで何度目だろう。


「景色を見てからでも遅くない」


「見ました」


「もう少し見ろ」


「……強引ですね」


「魔王だからな」


「それは理由になりません」


 カインの横顔は、いつもの険しさが少し薄れていた。星明かりの下では、深紅の瞳も黒髪も柔らかく見える。この人が「魔王」と呼ばれているのが、夜空の下では少し不思議だった。


「教会にいた頃は、星を見ましたか」


 不意にカインが聞いた。


「いいえ。窓が小さかったので」


「そうか」


「空を見る余裕もありませんでした。見たいとも思いませんでしたが」


「今は」


「……今も別に」


 リーリエは口ごもった。


 嘘だった。


 嘘だと、自分でもわかっていた。今、ここで空を見ているのは——少しだけ、足が止まったからだ。飛び降りるつもりで来たのに、星空を見て足が止まった。それは「見たい」ではないにしても、「見てしまった」ことに変わりはない。


「……そうかもしれません」


 リーリエは小さく言った。


「悪くない景色です」


 カインの横顔が、僅かに動いた。こちらを見たわけではない。ただ口元の線が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ああ。悪くない」


 二人は黙って空を見ていた。風が銀灰色の髪を揺らし、星が瞬く。


 どれだけ時間が経ったのか。リーリエの瞼が重くなった。身体の灼熱は相変わらずだったが、夜風の冷たさとカインの隣の温かさが混ざり合って、奇妙な安らぎがあった。


「降りるぞ」


 カインが立ち上がった。手を差し出す。


「飛び降りなくて、よかったですか」


「当たり前だ」


「そうですか」


 リーリエはその手を取った。大きな手だった。剣を振るってきた手。花を植える手。聖女を崖から引き上げた手。その手が、今は屋根から降りるために差し出されている。


 自分からその手を取ったことに、後から気づいた。


 カインに支えられて屋根を降り、部屋の窓から中に入る。カインは何も言わず去ろうとした。


「カインさま」


 呼び止めた自分に驚いた。カインも足を止めて振り返る。


「……柵の隙間、明日には塞がれるのでしょうね」


「当たり前だ」


「そうですか」


 それだけだった。それ以上言うことはなかった。けれどカインの口元が、僅かに緩んだ。


「……おやすみ」


「おやすみなさい」


 扉が閉まった。


 寝台に入る。身体は相変わらず灼けている。痛みは一秒も休まない。けれど今夜は、痛みの隙間に星の残像がちらついていた。


 目を閉じると、瞼の裏に星空が残っていた。風の音と、カインの低い声と、魔力の温かさ。


 ——悪くない景色だった。


 それだけのことだった。それだけのことなのに、瞼の裏に焼きついた星の光が、痛みの隙間に居場所を見つけて居座っている。追い出そうとしても消えない。消えないことが——不思議と、不快ではなかった。


 その夜のリーリエは、崖から落ちたあの日以来、初めて——死のうとせずに眠りに就いた。


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