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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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窓辺の花

 カインが土をいじっていた。


 リーリエが城内を歩いていて、渡り廊下から庭を見下ろしたとき、その光景が目に入った。


 魔王が、膝をつき、素手で土を掘っている。


 黒い外套を脱ぎ、袖をまくった腕に土がついている。傍らには小さな苗が幾つか並び、カインはそれを一本ずつ丁寧に穴に入れ、土を被せていた。


 不似合いだった。


 世界に恐れられる魔王が、花の苗を植えている。深紅の瞳で土の湿り具合を確認し、指先で苗の根元を整えている。


「……何をしているのですか」


 リーリエが渡り廊下から声をかけた。声は風に乗って庭に降り、カインが顔を上げる。額に汗が浮いている。朝露に濡れた土の匂いが風に乗って渡り廊下まで届き、リーリエの鼻先を掠めた。土で汚れた手を見て、一瞬気まずそうな表情を浮かべた。見つかった子供のような——いや、子供に例えるには威圧感がありすぎるが、気まずさだけは間違いなく子供のそれだった。深紅の瞳が落ち着かなく泳ぎ、土を払おうとして余計に手が汚れている。


「見ていたのか」


「ええ。不思議な光景でしたので。魔王さまが土にまみれて花を植えているというのは」


「花を植えている。見ればわかるだろう」


「なぜ」


「なぜとは」


「魔王さまが花を植える理由です。ヴェルナーさまやリュカに任せればよいものを、ご自分で土を掘っている。理由がないとは言わせませんよ」


 カインが視線を逸らした。土のついた手を外套で拭こうとして、外套がないことに気づいて手持ち無沙汰になっている。


「……暇だからだ」


 視線が泳いでいる。深紅の瞳が左に動き、右に動き、最後にリーリエから逸れて遠くの森に向かった。この人は嘘をつくとき、必ず目が泳ぐ。もう何度も見た癖だ。


「嘘ですね」


「嘘じゃない」


「嘘です。カインさまはいつも書庫で古文書を読んでいますし、ヴェルナーさまとの会議も毎日あります。暇なはずがありません」


 カインが黙った。論破された魔王の沈黙は、どこか情けなかった。深紅の瞳が気まずげに泳ぎ、土まみれの手を後ろに隠している。


「リュカ」


 不意にカインが呼ぶと、庭の隅からリュカが顔を出した。最初から近くにいたらしい。ニヤニヤしている。


「呼びました?」


「お前、余計なことを言うなよ」


「え、俺まだ何も——」


「これから言おうとしていただろう」


「バレてるっすね」


 リュカがリーリエの方に向き直り、声を潜めた——全く潜まっていなかったが。


「お嬢。旦那様ね、毎朝庭に出てるんすよ。お嬢の部屋の窓から見える場所に、綺麗な花を植えたいんだって」


「リュカ!」


「事実を述べただけっす!」


 カインが土のついた手でリュカを追い払おうとするが、リュカはひらりと避けて笑っている。


「旦那様、花の種類も自分で選んだんすよ。『窓から見えたとき綺麗なのはどれだ』って、ヴェルナーさんに三時間相談してて——」


「黙れ」


「ヴェルナーさん、最後には『もう全部植えなさい』って匙投げてましたよ」


 カインの顔が微かに赤くなった。魔王の威厳は、庭の土とリュカの暴露によって完全に崩壊していた。


 リーリエは渡り廊下から、その光景を見ていた。


「……そうですか」


 それだけ言って、リーリエは歩き去った。振り返らなかった。けれど背中に、カインの視線を感じていた。土にまみれた手で花を植える魔王の視線が、いつまでもリーリエの背中を追いかけていた。


 背後でリュカの「あ、お嬢行っちゃった」という声と、カインの「お前のせいだ」という声が聞こえた。


 その日の午後、リュカがリーリエの部屋にお茶を届けに来た。


「お嬢、花茶っす。今日は三種類——って約束したやつ」


「頼んでいません」


「頼まれなくても持ってくるのが俺っす」


 リュカが花茶を置きながら、何気なく言った。


「旦那様ね、本当は不器用なだけなんすよ。気持ちを言葉にするのが下手っていうか……。だから花植えたり、飯作らせたり、柵つけたりするんす。全部、お嬢のためなんすけど、本人は絶対認めないっすね」


「……別に、誰のためでも構いませんが」


「構わなくていいっすよ。でもね、お嬢」


 リュカが少し真面目な顔になった。


「花はいずれ枯れるって、前に言ったじゃないすか。そりゃそうなんすけど——枯れるって知ってて、それでも植える人がいるってことは、覚えといてほしいっす」


 リーリエは何も答えなかった。リュカは「じゃ、ごゆっくり」と軽く手を振って去っていった。


 夜。


 月が東の空に昇り、銀色の光が部屋に差し込んでいた。暖炉の火は弱くなり、薪の残り香が微かに漂っている。


 リーリエは窓辺に立っていた。柵越しに庭を見下ろす。月明かりが庭を照らし、カインが今日植えた苗が、小さな影を作っている。新しく耕された土が月光を吸い込んで、周囲より少しだけ黒く見えた。


 まだ花は咲いていない。苗が根付いて、芽が伸びて、蕾ができて、花が開くまでには時間がかかる。


 けれどカインはそれを知った上で植えたのだ。リーリエの窓から見える場所に、時間をかけて咲く花を。


 枯れると知っていて、植える。


 花が咲くまでリーリエがここにいると、信じて。


「枯れても、また……」


 リーリエは呟きかけて、途中で口を閉じた。


 窓から離れ、寝台に入る。


 翌朝。リーリエが目を覚まして窓の外を見ると、カインがまた庭にいた。昨日と同じように膝をつき、新しい苗を植えている。


 リーリエは柵越しにその姿を見下ろし——何も言わずに、窓辺を離れた。


 けれど部屋の花瓶の花に、指先で触れた。


 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。


 花弁は、柔らかかった。絹のように薄く、水の膜のように繊細な感触。人の肌よりも柔らかい。こんなものが、風雨に耐えて咲いているのだ。


 指先に残った感触を、リーリエは振り払わなかった。掌を閉じてみた。花弁の柔らかさの記憶が、指の腹にまだある。


 窓の外では、カインが新しい苗の周りに水をやっている。膝をつき、手のひらで土を均す姿。袖まくりした腕に朝露が光り、息が白く曇っている。


 世界を震え上がらせる魔王の朝は、一人の少女のための花壇から始まっていた。


 リーリエはそれを知らない。知らないまま、窓辺で朝を迎えている。けれど花弁の柔らかさは、指先が覚えていた。


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