魔王の食卓
カインが食堂に現れたのは、リーリエより早かった。
いつものことだ。リーリエが朝食の席に着くと、カインはすでに向かいの椅子に座り、腕を組んでいる。目の前にはまだ何も置かれていない。リーリエが来るまで食べない——いや、リーリエが食べるまで自分も食べない。それがこの数日で定着した奇妙な習慣だった。
「おはようございます」
「ああ」
短い挨拶。それだけのやり取りなのに、教会にいた頃には誰も「おはよう」と返してくれなかったことを、ふと思い出した。祭壇の前で目覚めても、そこにいるのは冷たい石像だけだった。
リーリエが椅子に座ると、カインが視線だけでリュカに合図した。
その瞬間、食卓が埋まった。
文字通り、埋まった。
焼きたてのパンが三種類。卵の料理が二種類。蜂蜜と果実のジャムが四瓶。スープが二皿。果物の盛り合わせ。焼き菓子。チーズの盛り合わせ。温かい牛乳。花茶。
「……これは」
「食え」
「いえ、量の問題です」
「リュカ。まだあるか」
「ありますよ! 焼き魚と肉のパテと——」
「もう結構です」
リーリエが静かに制止した。テーブルの上は料理で覆い尽くされ、皿の縁と皿の縁が重なっている。二人分——いや、十人分はある。
「カインさま。なぜこれほど」
「お前の好みがわからん」
カインが腕を組んだまま言う。
「何が好きか聞いても『何でも構いません』としか言わんだろう。なら全部出す。食って美味いと思ったものを教えろ」
理屈は通っている。好みがわからないから全部出す。力技にもほどがある。
「旦那様、俺の心と体力を返してほしいっす……」
リュカが厨房から顔を出して疲労困憊の表情を見せた。朝から全力で料理を作り続けたらしい。
「お嬢、どれか一つでも『好き』って言ってもらえると、俺の労力が報われるんすけど」
「どれも不味くはないです」
「全部同じ評価!?」
リュカが崩れ落ちる。ヴェルナーが背後に立ち、「まあそうなるでしょう」と冷静に予測通りの結果を受け止めていた。
リーリエは一つ一つ、料理に手をつけた。パンを千切り、スープを啜り、果物を口に運ぶ。どれも丁寧に作られていた。リュカの腕は確かだった。素材の味を引き出す繊細な味付け、火の通し加減の正確さ。教会の食事とは天と地の差がある。
リーリエは何も考えずに食べた。美味しいとも不味いとも思わず、ただ口に運ぶ。食事は生存のための行為であり、それ以上の意味を持たない——はずだった。
「どれが一番美味い」
カインが身を乗り出して聞いた。リーリエは咀嚼を止め、考え込んだ。
「……どれも不味くはないです」
「そうじゃない。好きなものを聞いている」
「好きなもの」
リーリエが復唱した。その言葉を舌の上で転がすように、もう一度呟く。
「好きな——もの」
好き。
その感情を最後に使ったのはいつだっただろう。教会に来る前——辺境の村にいた頃は、好きなものがあった気がする。母が作ってくれた何かの料理。甘くて温かくて、冬の夜に飲むと幸せだった——ような気がする。あるいは、裏庭に咲いていた何かの花。名前は忘れた。色も忘れた。ただ「好きだった」という感覚の殻だけが残っている。
けれど今は思い出せない。好きという感情の輪郭が、霧の中に溶けている。感情を凍結させた代償だ。痛みを感じないようにするために、他の感情も一緒に閉じてしまった。痛み止めが身体全体を麻痺させるように。
「……わかりません」
リーリエは正直に答えた。
「好きなものが何か、わかりません」
食卓が静まった。リュカの軽口が止まり、ヴェルナーの手が止まった。カインが——僅かに目を伏せた。
その沈黙を破ったのは、リュカだった。
「じゃあ明日も全部作るっす」
「……は?」
「好きなもんがわかるまで、毎日全部作りますよ。いつか『これが好き』って言ってもらえるまで」
リュカは笑っていた。疲労困憊の顔のまま、それでも笑っていた。
「お嬢が好きなもんを見つけるまで、俺の腕が鈍ることはないっすから」
リーリエは答えなかった。ただスプーンを持ち上げて、もう一口スープを飲んだ。
食後、ヴェルナーがカインに近づいた。
「旦那様。聖女殿に少々甘すぎはしませんか」
「甘くない。必要なことだ」
「必要、ですか。聖女を匿うだけでも教会との全面対立を招くというのに、好みの料理まで探るとは。世界の存亡を賭けた匿い人が、聖女の味の好みに頭を悩ませている——これを甘いと言わずして何と言いましょう」
「……うるさい」
「ふふ。旦那様がそう仰るのは、図星の証拠ですな」
ヴェルナーが小さく笑った。銀縁の眼鏡の奥で、琥珀の目が温かく細められている。五十年仕えてきた主人が、食卓の上の皿の数を数えて苦悩している姿は、なかなかに珍しい光景だった。
「しかし旦那様。聖女殿の『好きなものがわからない』という答え——あれは深刻ですな」
カインの足が止まった。
「わかっている」
「好悪の感覚が凍結している。あの方は苦痛から身を守るために、感情そのものを閉じてしまわれた。好き嫌いを感じられないのは、感情が凍っている証拠です」
「……わかっている」
二度目の「わかっている」は、一度目より低く、重かった。
カインは背を向けて歩き去った。その背中は広く、そして少しだけ強張っていた。耳が僅かに赤いのを、ヴェルナーは見逃さなかった。
翌朝も、食卓は料理で溢れていた。
リーリエは淡々と食べた。全ての皿に手をつけ、「不味くはない」を繰り返す。
けれどその日——リーリエの手が、ほんの一瞬だけ止まった。花茶のカップを口元から離すのが、他の料理のときより遅かった。唇が茶の温もりに触れている時間が、わずかに長い。湯気が鼻先を温め、花の香りが口の中にふわりと広がる。教会では白湯しか飲めなかった。味も香りもない、ただの水。それと比べると、この花茶は——何かが違う。
リュカはそれを見逃さなかった。
「お嬢、花茶好きっすか?」
「……別に。不味くはないだけです」
「了解っす! 明日は花茶三種類用意するっすね!」
「そこまでしなくて結構です」
けれどリュカはもう厨房に走っていた。カインが無表情のまま、花茶のカップを見つめている。
好きなものは、まだわからない。
けれど「不味くない」の中に、ほんの少しだけ温度差があることを——この城の住人たちは、必死に読み取ろうとしていた。




