死なせてくれない人たち
城の裏手に湖があることを、リーリエが知ったのは四日目の朝だった。
散歩の途中で見つけた。城壁の向こう、木々の間を抜けた先に、鏡のように静かな水面が広がっていた。朝靄が薄く漂い、水面に映る空が淡い灰色に揺れている。水鳥が一羽、湖面を滑るように泳いでいた。穏やかな光景だった。
リーリエはその穏やかさに、何も感じなかった。美しいとも、心が安らぐとも。ただ水面を見つめて、一つのことだけを考えた。
深さは十分にありそうだった。
リーリエは靴を脱ぎ、静かに水に足を踏み入れた。冷たい。足首、膝、腰——淡々と、何の迷いもなく水の中に進んでいく。服が水を吸って重くなるが、構わなかった。重い方がいい。沈みやすい。
肩まで浸かったとき、水面が轟音とともに割れた。
カインが水の中に飛び込んできた。
「いい加減にしろ!」
水飛沫が上がり、カインの腕がリーリエの腰を掴んで引き上げる。リーリエの身体が水面から持ち上げられ、岸に運ばれる。カインは全身ずぶ濡れだった。外套が水を吸って黒々と重く垂れ下がっている。
「お断りします」
リーリエは髪を絞りながら淡々と言った。水が指の間から滴り落ち、石の上に小さな水たまりを作っている。
「お前——毎朝毎朝——」
「毎朝ではありません。昨日は窓でした」
「そういう問題じゃない」
カインが荒い息をつく。黒髪が額に張り付き、深紅の瞳が濡れた光を帯びている。苛立ちの下にあるのは、恐怖だった。今日は間に合った。しかし明日も間に合うとは限らない。
「なぜ水なんだ」
「溺れるのは苦しくないと聞きました。最後は意識がなくなるそうです」
「詳しいな」
「教会の書庫にそういう文献がありましたので」
「教会はろくなものを置いていないな」
カインの声に滲む怒りは、リーリエに向けられたものではなかった。少女に死に方を学ばせるほど追い詰めた場所に対する、静かな怒り。
リーリエは岸辺に座り込んだ。びしょ濡れの聖衣——ではなく黒い服が身体に張り付き、華奢な身体の線が露わになっている。風が吹いて、リーリエの肩が微かに震えた。湖の水は思ったより冷たかった。泥の匂いが鼻につき、髪の先から雫が落ちて石の上に小さな模様を描いている。
本人は気にしていなかった。寒さなど、身体を常に灼く痛みに比べれば些細なことだ。むしろ冷たさが心地よかった。灼熱の対極にある冷たさが、ほんの一瞬だけ痛みの輪郭を曖昧にしてくれる。
カインがリーリエの前に膝をつき、自分の外套を脱いだ。水を絞ってから、リーリエの肩にかける。
「風邪をひくぞ」
「風邪で死ねるなら構いません」
「死なせん」
「知っています。何度も聞きました」
外套は濡れていたが、それでもカインの体温が残っていた。重く、温かく、リーリエの細い肩を包んでいる。
リーリエが——一瞬だけ、目を伏せた。
温かい。
それだけのことだ。それだけのことなのに、身体が無意識に外套の重みを受け入れていた。振り払おうとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うなら死ぬな」
「それは別問題です」
カインが何か言いかけたとき、城の方から悲鳴のような声が近づいてきた。
「旦那様ーーー! お嬢ーーー!」
リュカが全速力で走ってくる。後ろからヴェルナーが淡々と歩いている。リュカは二人のずぶ濡れの姿を見て、「またですかーーーっ!!」と天を仰いだ。
「ヴェルナーさん! 湖にも柵つけましょう!」
「湖に柵ですか。……少々大規模な工事になりますな」
「大規模でもなんでもいいっす! 俺の心臓が持たない!」
リュカが乾いた毛布と温かい飲み物を持って走り回る。ヴェルナーが「まずは着替えを」と冷静に段取りを整え、小さな魔族たちが湯を沸かしに駆けていく。
大騒ぎだった。
リーリエは毛布にくるまれ、温かい茶を手に持たされ、暖炉の前に座らされた。リュカが「お嬢、飲んでください」と茶を押し、ヴェルナーが着替えを用意し、カインが「まだ震えていないか」と何度も確認する。
過剰だった。明らかに過剰だった。
教会では、リーリエが倒れても誰も走らなかった。儀式の後、動けなくなったリーリエを見て、司祭は「しばらく休みなさい」と言い、修道女が水を置いて去った。それだけだった。慌てる人はいなかった。心配する人もいなかった。聖女が消耗するのは想定内のことだったから。
ここは、違う。
リーリエが濡れただけで——死にかけたのは事実だが——城中が動く。毛布を持つ者、湯を沸かす者、着替えを用意する者、茶を淹れる者。全員が全力で走り回っている。
「……面倒な人たちですね」
リーリエは呟いた。
それは——これまでの「どうでもいい」とは、少し違う言葉だった。
リュカが動きを止めた。ヴェルナーの眼鏡の奥の目が細くなった。カインが、リーリエを見た。
「面倒でも構いません!」
リュカが即答した。満面の笑みで、毛布をもう一枚リーリエの肩にかける。
「面倒でも構わないっすから、死なないでくださいね、お嬢」
「……そんなことを言われても困ります」
「困ってください。俺たちは困ってるんすから、お嬢にも困ってもらいます」
リーリエは返す言葉を見つけられなかった。口を開きかけて、閉じた。何かが喉の奥に引っかかっている。言葉にならない何かが。
温かい茶を一口飲んだ。リュカの淹れた茶は、少し甘かった。蜂蜜の甘さではない。花の香りに似た、素朴な甘さ。冷えた身体の芯に、ゆっくりと熱が広がっていく。
「面倒な人たち」。
リーリエは自分の口から出た言葉を、心の中で反芻した。
どうでもよければ、面倒とすら思わない。迷惑ならば「迷惑です」と言う。けれど「面倒」は——この人たちの存在を、確かに認識しているという告白だった。
リーリエはそのことに、まだ気づいていない。
けれどカインの外套の温もりが肩に残っていたことだけは、夜になっても覚えていた。
寝台に入り、目を閉じる。身体は相変わらず灼けている。けれど今夜は、痛みの隙間に別のものが混じっていた。
濡れた肩にかけられた外套の重み。リュカの甘い茶の味。「面倒でも構いません」という即答。
リーリエは寝返りを打った。
「……面倒な人たちです」
二度目のその言葉は、一度目よりほんの少しだけ、柔らかかった。




