遠い鐘の音
窓に柵が取り付けられたのは、三日目の朝だった。
リーリエが窓の縁に足をかけた瞬間、廊下の向こうからリュカの絶叫が響いた。
「お嬢ーーーっ!!」
廊下の向こうから凄まじい勢いで駆けてくる足音。壁にぶつかり、角を曲がり、全速力で駆けつけたリュカに窓から引きずり下ろされた。リュカの手は震えていた。額に汗が浮いている。
リーリエは淡々と言った。
「この高さなら確実です」
「確実にしないでください!」
「三階ですから、落下速度を考えると——」
「計算しないで!? 物理の問題じゃないんすよ!?」
リュカが半泣きで叫ぶ声を聞きつけて、ヴェルナーとカインが現れた。ヴェルナーは窓を一瞥し、「柵を取り付けますか」と冷静に提案した。
「……頼む」
カインの声は静かだったが、その目は笑っていなかった。
午後には窓に頑丈な鉄柵が嵌め込まれた。黒い鉄棒が等間隔に並び、窓の外の景色を縞模様に区切っている。リュカが「これで安心っすね」と胸を撫で下ろし、ヴェルナーが「念のため、城内の全ての窓を点検します」と去っていく。
リーリエは柵越しに外を眺めた。格子の向こうに広がる空は相変わらず青く、カインが植えた花壇が遠くに見えた。
「……随分と手間をかけますね」
「お嬢が手間をかけさせるんすよ」
「死ぬのにそれほど手間はかかりません」
「だから死なないでくださいって言ってるんす!」
リュカの必死さは、どこか滑稽だった。教会の人々は誰一人として、リーリエが死にたいと言ったとき、こんな顔をしなかった。聖女が弱音を吐けば「お務めですから」と笑顔で諭され、涙を流せば「神がお守りくださいます」と祈りの言葉を唱えられた。誰も慌てなかった。誰の顔色も変わらなかった。
この城の人々は違う。リーリエが死のうとするたびに顔色を変え、走り回り、大騒ぎをする。まるでリーリエの命に本当に価値があるかのように。
その日の午後、ヴェルナーがカインの執務室に報告に訪れた。
リーリエは知らないことだったが——城の奥で、静かな緊張が走っていた。
「旦那様。教会が動いています」
ヴェルナーの声は平坦だったが、持参した書簡の内容は穏やかではなかった。
「聖女リーリエの失踪が正式に報告されました。教会は全土に捜索令を出しています。聖騎士団の派遣も時間の問題かと」
カインは書簡を一読し、机に置いた。
「予想通りだ」
「予想通りであっても、状況は深刻です。聖女を匿えば、教会との全面対立になります。いえ——なります、ではなく《《もうなっている》》のです。聖騎士団が動けば、この城も安全ではありません」
「わかっている」
「それでも?」
「それでもだ」
ヴェルナーが眼鏡を押し上げた。その奥の目が、いつもの冷静さの下に僅かな懸念を覗かせている。
「もう一つ問うてよろしいですか。旦那様。なぜあの聖女を」
「世界が終わるからだ」
「それだけですか」
カインの沈黙が、数秒続いた。
「……それだけだ」
「承知しました。では、防衛の手配を進めます。城の結界を強化し、偵察網を広げましょう。教会の動きは逐一報告いたします」
「頼む」
「ただし旦那様、一つだけ」
ヴェルナーが扉の前で振り返った。
「聖女殿は脆い。身体だけでなく、心も。お心遣いはよろしいのですが——あの方に必要なのは過保護ではなく、安心できる場所かと」
カインは答えなかった。ヴェルナーはそれ以上追及せず、一礼して去った。
カインは一人残った執務室で、窓の外を見た。遠くに見える山並み。その向こうに、教会の塔がある。五百年前から変わらない風景の中で、変わったのは——あの城に、守るべき人がいるということだけだった。
「……構わん」
誰にともなく呟いた。
「教会だろうが聖騎士団だろうが——あの子は死なせない」
その頃、リーリエは窓辺に座っていた。
柵の向こうに広がる夕暮れの景色。赤く染まった空の向こうから、微かな音が届いた。
鐘の音。
低く、長く、余韻を引く鐘の音。教会の方角から風に乗って流れてくる。
リーリエの身体が、一瞬だけ強張った。
鐘の音。あの音を聞くたびに——祭壇に連れていかれた。冷たい石の上に横たえられ、司祭たちが祈りの言葉を唱え、身体の奥が灼け始める。結界に命を注ぎ込む儀式。終わった後はいつも動けなくなって、暗い部屋で一人、天井を見つめていた。
「……関係のないことです」
リーリエは呟いた。声が掠れていた。自分の声の震えに気づいて、唇を引き結んだ。もう教会にはいない。あの祭壇には立たない。白い聖衣は脱ぎ捨て、冷たい石の部屋には二度と戻らない。
けれど身体は覚えていた。鐘の音と痛みの記憶が、骨の奥で結びついている。鐘が三度鳴れば儀式の合図。四度鳴れば聖女の招集。左胸の紋章が、鐘の音に呼応するかのように微かに熱を持った。
あの場所には戻りたくない。
その感情が胸を過ぎったことに、リーリエ自身は気づかなかった。「戻りたくない」は「ここにいたい」とは違う。ただ過去を拒んでいるだけだ。けれど——拒むためには、感情が必要だった。「どうでもいい」人間は、何も拒まない。
「お嬢、夕飯っすよー! 今日はシチューっす!」
リュカの声が廊下から響いた。鐘の音をかき消すように、明るく、軽く。
リーリエは窓から目を逸らした。
「……今行きます」
立ち上がる。柵のついた窓を背にして、廊下に出る。
リュカが満面の笑みで「今日のは自信作っす!」と手招きしている。その後ろから、カインが静かに歩いてきた。食堂に向かう途中、リーリエの歩調に合わせるように歩幅を緩めているのが見えた。
鐘の音は、もう聞こえなかった。
代わりに聞こえるのは、リュカの軽口と、カインの「うるさい」と、ヴェルナーの溜息。
この城の音は、教会の鐘とは違っていた。
騒がしくて、温かくて——少しだけ、痛みを忘れさせるような。
リーリエはシチューの皿の前に座り、スプーンを手に取った。リュカの自信作は、確かに温かかった。野菜が柔らかく煮込まれ、肉の旨味がスープに溶け出している。香草の香りが湯気とともに立ち上り、冷えた身体の内側をじんわりと温めた。
「……不味くはないです」
「その言葉、俺の中で最高の褒め言葉になりつつあるんすけど、いいんすかね」
「お好きにどうぞ」
リュカが笑った。カインが無表情でスープを啜った。ヴェルナーが姿勢良く食事を取っている。
食堂の灯りが温かい。窓の外では、もう鐘の音は聞こえなかった。




