聖女の寝室
リーリエの部屋が、変わっていた。
朝食の後、部屋に戻ると、寝台のシーツが新しいものに替えられていた。肌触りの良い、上質な布。指先で撫でると絹のような滑らかさがあり、教会の粗い麻布とは雲泥の差だった。枕も増えている。窓辺には小さな花瓶が置かれ、白と薄紫の花が活けてあった。花弁の縁に朝露が残っていて、微かな甘い香りが漂っている。暖炉には火が入り、部屋全体がほんのりと温かい。薪の爆ぜる小さな音が、規則的に響いていた。
廊下から物音がした。
リーリエが部屋を覗くと、カインが従者たちに何やら指示を出していた。
「カーテンは遮光のものに替えろ。朝日で起きるかもしれん」
「旦那様、敷物は厚手がよろしいですか。石の床は冷えますので」
「ああ、厚手だ。足が冷える」
ヴェルナーが几帳面にメモを取り、小さな魔族たちが忙しく走り回っている。カインはその中心に立って腕を組み、眉間に皺を寄せながら——寝室の模様替えに全力を注いでいた。
「……何をしているのですか」
リーリエの声に、カイン以外の全員がぎくりと振り向いた。
「お嬢! もう戻ってきたんすか! まだ途中なのに!」
リュカが毛布を抱えたまま慌てる。カインだけは動じず、リーリエに向き直った。
「お前の部屋だ。住みやすくする」
「どうでもいいです。どうせ長くはいませんから」
「長くいるんだ」
短く、断定的に。カインの深紅の瞳がリーリエを真っ直ぐに見る。
「長く——」
「ああ。だから住みやすくする。文句あるか」
文句はなかった。正確に言えば、文句を言う気力がなかった。リーリエは「ご自由にどうぞ」と肩を竦めて窓辺に座った。
カインの背中を眺める。大柄な身体が従者たちの間を動き回り、カーテンの位置を確認し、暖炉の火の加減を確かめている。数百年を生きたと噂される魔王が、寝具の肌触りを指で確認している。世界を震え上がらせる男が、敷物の厚みに頭を悩ませている。
滑稽だった。けれどリーリエは笑わなかった。笑えなかった。ただ、奇妙な光景だと思った。
教会の司祭たちは、リーリエの部屋を整えたことなど一度もなかった。聖女の間は地下の石壁の部屋で、窓は天井近くに一つだけ。寝台は木の板、敷布は一枚、暖房は儀式の後に持ち込まれる小さな炭火だけ。「聖女には質素な暮らしが相応しい」と言われ、リーリエもそう信じていた。
ここにいる人々は、真逆のことをしている。聖女に贅沢な部屋を与え、花を飾り、クッションの色を選ばせようとする。死にたがっている人間に対して、生きやすい環境を整えるという矛盾。
作業は昼過ぎまで続いた。リーリエは窓辺に座ったまま、従者たちが忙しく動き回るのを眺めていた。リュカが「お嬢、この色どうっすか」と何度もクッションの色を聞きに来たが、リーリエは全て「どちらでも」と答えた。
「どちらでもって……。旦那様、お嬢が選んでくれないっす」
「なら俺が選ぶ。青だ」
「なんで青?」
「……うるさい。青だ」
リュカが首を傾げ、ヴェルナーが「聖女殿のお目の色に近い色を選ばれたのでは」と小声で囁いた。リュカの目が丸くなる。
「旦那様って——」
「聞こえているぞ、リュカ」
「なんでもないっす!」
作業が終わった後、リュカがリーリエの隣にやってきた。
「お嬢、あのですね。旦那様が自分で花を選んだんすよ。庭から摘んできて、『これでいいか』って三回聞かれて——」
「リュカ!」
廊下からカインの声が飛んできた。リュカが肩を竦めて笑う。
「ま、そういうことっす。旦那様は不器用なんすけど、本当に悪い人じゃないんすよ。俺、五十年仕えてますけど、あの人が自分で花を摘んだの初めて見ましたから」
「五十年……」
「ええ。五十年っすよ。その間、あの人は一度も自分のために何かをしたことがなかったんす。全部、何かを探すためだけに生きてて」
リュカの声が、一瞬だけ真剣になった。しかしすぐにいつもの軽さを取り戻して、ぱんと手を叩く。
「ま、そんな難しい話はいいっすよ。とにかく旦那様は不器用なんすけど、本当に悪い人じゃないんす」
「……そうですか」
「嬉しくないっすか?」
「別に。花はいずれ枯れます」
リュカが一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに、いつもの軽い笑顔を取り戻す。
「枯れたら、また摘んでくればいいじゃないすか」
その言葉は、リーリエの胸を素通りした——はずだった。
夜になった。
従者たちは去り、城は静まり返っている。新しいシーツの寝台は教会のものとは比べものにならないほど柔らかく、暖炉の火が部屋を温めている。
リーリエは寝台に横たわらず、窓辺に座っていた。
花瓶の花を見つめている。
白と薄紫。リーリエの髪の色に似た花を、カインが選んだのだという。三回も確認して。
教会にいた頃、リーリエの部屋はただの石壁の小さな部屋だった。窓は高い位置にあり、光は薄くしか入らない。寝台は硬い木の板に薄い敷布を被せただけのもので、冬は底冷えが身体を刺した。花など飾られたことはなかった。慰めの言葉すらなかった。「聖女のお務めです」「世界のためです」——それだけ。
聖女に快適な暮らしは不要だと、教会は考えていた。贅沢は信仰を鈍らせる。苦行こそが聖女の美徳である。そう教わって、リーリエもそう信じていた。
だから、この部屋は場違いだ。柔らかい寝台も、温かい暖炉も、窓辺の花も。死を待つだけの人間には、過ぎた贅沢だ。
「……花なんて、飾っても枯れるだけなのに」
呟いた。
けれど花に触れることはしなかった。引き抜くこともしなかった。
ただ、見ていた。
薄紫の花弁が暖炉の光に照らされて、微かに揺れている。
枯れたら、また摘んでくればいい——リュカの言葉が、不意に耳の奥で響いた。
リーリエは視線を逸らし、寝台に入った。新しいシーツは驚くほど柔らかかった。身体の灼熱は変わらないのに、肌に触れる布の感触がそれを僅かに和らげているような——気のせいだろう。
目を閉じる。暗闇の中で、左胸の紋章が微かに脈打つのを感じる。結界に命を送り続ける脈動。それだけが、リーリエが生きている証だった。
花は、朝になってもそこにあった。
白と薄紫の花弁に、朝日が差し込んでいた。昨夜より少しだけ開いて、光を受けて輝いている。窓から入る朝の風が花弁を揺らし、甘い香りが鼻先を掠めた。
リーリエはそれを見て——すぐに視線を逸らした。
視線を逸らしたのに、香りだけは追いかけてくる。教会の地下にはなかった匂い。あの場所にあったのは蝋燭の蝋と、湿った石と、消毒薬の匂いだけだった。
けれど花瓶を動かそうとは、しなかった。




