毒草の朝食
朝日が窓から差し込む前に、リーリエは目を覚ました。
身体の灼熱はいつも通りだった。眠っている間も止まらない鈍痛が、意識の浮上とともに鮮明さを増す。二年間この痛みとともに生きてきた。もはや痛みのない朝を思い出すこともできない。
着替えを済ませ——リュカが用意してくれたらしい黒い服は、教会の白い聖衣より柔らかかった——リーリエは静かに部屋を出た。
朝の庭は清々しい空気に満ちている。夜露に濡れた石畳を歩きながら、リーリエは庭の隅に目を留めた。
紫色の花が咲いている。
いや、花ではない。リーリエは教会での教育で薬草と毒草の知識を一通り学んでいた。あの紫色の小さな花弁、鋸歯のある葉——夜獣草。煎じて飲めば数時間で心臓が止まる。苦痛は少ない。
悪くない選択肢だった。毒草による死は、崖や入水と比べて確実性が高い。しかも発見が遅れれば手遅れになる。
こんなことを冷静に分析している自分を、リーリエはどこか他人事のように眺めていた。死に方を比較検討するのは、もはや日課のようなものだった。教会にいた頃から。
リーリエは淡々と手を伸ばした。
その手首を、横合いから掴まれた。
「朝から死のうとするな」
カインの声だった。いつの間に来たのか、黒い外套の裾が朝露に濡れている。まるで朝からリーリエを見張っていたかのような——いや、おそらく実際にそうなのだろう。
「善処します」
「するな」
「善処しないのですか」
「言葉が通じていないのか」
カインが夜獣草をリーリエの手の届かない高さでむしり取り、懐に入れた。リーリエは特に残念そうな顔もせず、カインを見上げた。
「他にもありますよ。この庭には毒性のある植物が少なくとも三種——」
「ヴェルナー!」
カインの呼び声が朝の庭に響いた。数秒後、ヴェルナーが現れる。早朝だというのに身なりは完璧で、銀縁眼鏡の奥の目は冷静そのものだった。
「何事ですか、旦那様」
「庭の毒草を全て除去しろ。一本残らずだ」
ヴェルナーの眼鏡が朝日を反射した。
「全てですか。それは大仕事ですな。……聖女殿が?」
「ああ」
「なるほど。直ちに」
ヴェルナーが踵を返すと、入れ違いにリュカが走ってきた。
「旦那様! 聖女様が毒草を——って、もう掴まってるんすね。早」
「お前は見張りをしていなかったのか」
「いや、朝ごはんの仕込みしてたんすよ! お嬢が起きる前に温かいの用意しとこうと思って——」
「言い訳はいい。リュカ、ヴェルナーを手伝え。庭の毒草を全て抜く」
「ぜ、全部!? この庭広いんすけど!」
「全部だ」
リュカが「うぇぇ」と情けない声を上げながらヴェルナーを追いかけていく。リーリエはその光景を淡々と眺めていた。
「……面倒なことをしますね」
「お前が面倒なことをするからだ」
「死ぬことは面倒ではありません。むしろ手間が省けます」
カインの目が鋭くなった。しかし怒りではなく、そこにあるのはもっと複雑な感情だった。苛立ちと焦り、そしてリーリエには理解できない何か。
「死なせん。何度でも言う」
「何度聞いても同じ答えですが」
「なら何度でも言う」
押し問答を打ち切るように、カインがリーリエの背を軽く押した。
「来い。朝飯だ」
「いりません」
「いるいらないは聞いていない。食え」
食堂——と呼ぶには広すぎる部屋だった。長いテーブルの端にリーリエが座らされ、目の前に料理が並べられる。
焼きたてのパン、とろりとした卵の料理、蜂蜜、果物の盛り合わせ。湯気の立つスープは昨夜リュカが作ったものとは違う、朝向けの軽い味わいのものだった。
「毒草より美味いものを食わせてやる」
カインがリーリエの向かいに座り、腕を組んだ。自分は食べないらしい。目の前には何も置かれていない。
「カインさまは召し上がらないのですか」
「お前が食べるまで俺も食わん」
「それは脅迫では」
「交渉だ」
「交渉には対等な立場が必要です。魔王と聖女では力関係が——」
「御託はいい。食え」
リーリエは一瞬カインを見つめた。深紅の瞳は真剣だった。冗談で言っているのではない。本当にリーリエが食べるまで自分も食べないつもりだ。
馬鹿らしい。聖女一人の食事のために魔王が空腹を我慢するなど、世界のどこに出しても笑い話だ。
けれど笑えないので、代わりにスプーンを取った。
スープを一口。
温かい。
教会の食事はいつも冷めていた。質素なパンと薄いスープが一日に二度。聖女に美食は不要だと言われ、温かさなど求めたこともなかった。味を感じる余裕すらなかった。身体が常に灼けているのだから、舌の感覚など二の次だった。
だからこの温度が、この味が、リーリエの舌の上で思いのほか鮮やかに広がった。野菜の甘み。香草の香り。丁寧に煮込まれたとわかる滑らかな舌触り。
「……不味くはないですね」
リーリエの声に、カインの肩から僅かに力が抜けた。
その瞬間、庭から戻ってきたリュカが食堂に顔を出した。泥だらけの手で「お嬢、どうすか!」と叫ぶ。
「リュカ! 手を洗え!」
「あ、すんません——で、お嬢の反応は!?」
「不味くはないそうだ」
「マジすか! やった! 不味くないって言ってもらえた!」
リュカが泥だらけのまま小躍りする。ヴェルナーが後ろから「手を洗いなさい」と冷静に言いながら、しかし口元が僅かに緩んでいた。
大騒ぎだった。
たかが「不味くはない」の一言で、この城の住人たちは大騒ぎをする。教会では何を言っても、何を感じても、誰の表情も変わらなかったのに。
「……変な人たちですね」
リーリエは小さく呟いた。変、という感想が口から出たことに、自分でも少し驚いた。「どうでもいい」ではなく「変」。人々の振る舞いに対して、感想を持っている。
教会の人々は変ではなかった。整然と、合理的に、聖女という資源を管理していた。誰も叫ばず、誰も走り回らず、誰も「不味くない」の一言に小躍りしたりしなかった。
この城の人々は——変だ。
リーリエはスプーンを置き、スープの残りを静かに飲み干した。
空になった皿を見つめる。教会では残さず食べても、何の反応もなかった。ここでは、空の皿一つで従者が喜ぶ。
変な人たちだ。
でも——不思議と、嫌ではなかった。




