魔王城へようこそ
魔王の城は、思っていたものとは違った。
荒廃した廃墟を想像していた。暗く、冷たく、瘴気に満ちた場所を。教会が教える「魔王の棲処」は、常闇に覆われた呪われた城であり、近づく者は命を奪われ、空には不吉な鴉が旋回しているはずだった。
しかし眼前にそびえる城は、黒い石壁こそ威圧的だったが、窓には灯りが灯り、庭は手入れが行き届いていた。門の脇に植えられた低木は綺麗に刈り込まれ、石畳には雑草の一本もない。鴉もいない。代わりに、門柱の上で小鳥がさえずっていた。
「……立派なお城ですね」
リーリエは棒読みで言った。
声は乾いていた。喉の奥が乾燥しているのは、崖からここまで運ばれる間、ずっと口を開けていなかったからだ。
「褒めても死なせんぞ」
「褒めていません。事実を述べただけです」
カインが城門をくぐると、中から二つの人影が現れた。
一人は長身の男だった。銀縁の眼鏡をかけ、黒い長衣を纏っている。整った顔立ちに一切の感情を浮かべず、冷静な琥珀の瞳がリーリエを観察するように見つめた。
「お帰りなさいませ、旦那様。……これが聖女殿ですか。随分と——小柄ですな」
「ヴェルナー。それが第一声か」
「事実を述べたまでです」
もう一人は、栗色の髪をゆるく結んだ青年だった。白いシャツの袖をまくり、ベストのボタンを一つ外した軽装。いたずらっぽい琥珀色の瞳が、リーリエを見てぱっと輝いた。
「おー! これが噂の聖女様っすか! 思ったより可愛いじゃないすか!」
「リュカ、失礼だぞ」
「え、褒めてるんすけど」
カインがリーリエを地面に降ろす。リーリエはよろめきもせず、二人の従者を静かに見上げた。
「初めまして。聖女のリーリエです」
丁寧な挨拶だった。背筋を伸ばし、手を前で組み、わずかに頭を下げる。教会で十二歳から叩き込まれた礼儀作法が、何も感じていなくても自動的に口と身体を動かす。人形のように。
「死なせてください」
続いた言葉に、場が凍った。
ヴェルナーの眼鏡の奥の目が僅かに見開かれ、リュカが「え、えぇ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、今なんて——」
「死なせてください、と申しました」
「いやいやいやいや、旦那様!? 正気っすか!?」
リュカがカインに詰め寄る。カインは腕を組んだまま、無表情に答えた。
「この方を守れ。命に代えても」
「いや、その前にいろいろ聞きたいことが——」
「守れ。以上だ」
リュカが口をぱくぱくさせ、ヴェルナーが眼鏡を押し上げた。
「旦那様。聖女を匿うということは、教会との全面対立を意味しますが」
「承知の上だ」
「ならば問いません。……聖女殿、こちらへ。お部屋をご用意します」
ヴェルナーが先に立って歩き出す。リュカがまだ「ええぇ」と言いながら、それでもリーリエの荷物——といっても何もないが——を探すように辺りを見回していた。
「お嬢、荷物は? 着替えとかないんすか?」
「ありません。教会から何も持たずに出ましたので」
正確には、持ち出すものがなかった。聖女の私物は教会の管理下にあり、リーリエ個人のものなど何一つなかった。名前すら教会が与えたものだ。リーリエ——百合の花を意味する名。聖なる花。人柱にふさわしい名前を、と司祭が選んだ。
「マジすか……。じゃあ服とか用意しないと。旦那様、聖女様のお召し物——」
「手配しろ。白以外で」
カインの声が僅かに硬くなった。リュカが首を傾げたが、ヴェルナーは何かを察したように頷いた。
白い服は、教会を連想させる。聖女の聖衣は常に白だった。純潔と献身の象徴として。リーリエにとって白は——痛みの色だった。
リーリエは黙ってついて行った。城の中は外観と同じく整然としていた。広い廊下、磨かれた石の床、壁には古い織物が飾られている。人の気配は少ないが、時折小さな影が柱の陰から覗いていた。小さな魔族たちが、珍しそうにリーリエを見ている。
「ここがお嬢の部屋っす」
リュカが扉を開けた先には、清潔で広い部屋があった。大きな窓から夕陽が差し込み、白いカーテンが風に揺れている。寝台には新しいシーツが敷かれ、暖炉には火が入る準備がされていた。
「どこでも構いません」
リーリエは部屋に足を踏み入れた。教会の聖女の間とは比べものにならない広さだった。天井は高く、窓は大きく、光が溢れている。寝台は一人には広すぎるほどで、白いシーツが清潔に整えられている。
教会の部屋は暗かった。地下にあったから。窓は天井近くに小さなものが一つだけで、光は這うように入ってきた。寝台は狭い木の板で、冬は凍えた。
この部屋は、全てが違う。
けれどリーリエにとっては同じだった。どんな部屋でも、身体は灼け続ける。
窓辺に立った。遠くに山並みが見える。その向こうに——教会の塔が、霞んで見えるような気がした。
「お嬢、お腹空いてません? 温かいスープ作りますよ!」
「結構です」
「遠慮しないでくださいよー。俺の料理、美味いって評判なんすから」
「遠慮ではなく、不要です」
「……旦那様、この子手強いっす」
リュカが小声でカインに囁く。カインは扉の枠に背を預け、リーリエの細い背中を見つめていた。
「リュカ。スープを作れ」
「え、でもお嬢が——」
「いいから作れ」
「了解っす……」
リュカが走り去り、ヴェルナーも静かに一礼して去った。部屋にはリーリエとカインだけが残された。
沈黙が落ちる。
窓の外で風が鳴っている。遠くの森が夕陽に染まり、木々の先端が橙色に光っている。知らない場所の、知らない夕暮れ。けれど空は同じ色をしていた。教会の祭壇の窓から見えたのと同じ、血のような茜色。
「……なぜ、助けたのですか」
リーリエは窓の外を見たまま、静かに問うた。
「言っただろう。お前が死ぬと世界が終わる」
「それは理由になりません。世界が終わるなら、終わればいいのでは」
カインの沈黙が、一瞬だけ重くなった。
「……お前は疲れているんだ。今は寝ろ」
答えにならない答えを残して、カインは部屋を出た。扉が静かに閉まる。
リーリエは一人になった部屋で、窓の外を見つめ続けた。夕陽が山の向こうに沈んでいく。空が茜色に染まり、やがて紫に変わっていく。
知らない城。知らない人々。知らない生活。
何も変わらない。どこにいても身体は灼けている。左胸の紋章が静かに脈打ち、結界へ命を送り続けている。場所が変わっても、聖女の務めは終わらない。
それでも——。
扉の向こうから、スープの匂いが漂ってきた。
温かい匂いだった。野菜を煮込んだ素朴な香り。リュカが作っているのだろう。「結構です」と断ったはずなのに、この城の従者は聞き分けがいいとは言えない。
匂いが、ほんの少しだけ、鼻先をくすぐった。
リーリエは窓から離れ、扉に近づいた。
開けはしなかった。ただ——匂いの近くに、立っていた。




