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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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崖の聖女

 世界が白く灼けている。


 それが、リーリエの日常だった。


 耳鳴りのように響く鈍い音は、血管の中を流れる灼熱の記憶だ。指先が冷たいのに、骨の芯は燃えている。矛盾した感覚に、もう二年も慣れていた。


 全身を内側から焦がす鈍い痛みは、目覚めた瞬間から眠りに落ちる刹那まで途切れることがない。骨の髄に熱い杭を打ち込まれているような、しかし血の一滴も流れない苦痛。聖女として覚醒したあの日から二年、リーリエはこの灼熱とともに生きてきた。


 いや——生かされてきた。


 世界を覆う結界のために。人々の平穏のために。教会が掲げる「聖なる理念」のために。


 リーリエという名前を持つ一人の少女のためではなく。


 崖の縁に、白い聖衣が風に揺れている。


 リーリエは遠くを見つめていた。断崖の下には深い谷が広がり、白い霧がゆるやかに渦を巻いている。落ちれば、きっと痛みは一瞬だろう。二年間の灼熱に比べれば、一瞬の痛みなど無に等しい。


「……もう、いいですよね」


 誰に許しを求めているのでもなかった。ただ、疲れたのだ。


 結界を維持するための燃料。それが人柱(アンカー)と呼ばれる聖女の正体だった。命を削り、魂を削り、世界を覆う結界(ヴェール)を保つ。教会はそれを「聖なる務め」と呼んだ。リーリエは最初、その言葉を信じていた。


 信じられなくなったのは、いつからだろう。


 痛みが日常になった頃か。祈っても神が応えなかった夜か。それとも、鏡に映る自分の目から光が消えたことに気づいた朝か。司祭たちの温かい微笑みの下に、冷たい計算が透けて見えた日か。


 もう思い出せない。思い出す気力もない。


 左胸の聖女の紋章が、微かに脈打っている。白銀の紋様が肌の下で発光し、結界に命を送り続けている。寝ても覚めても止まらない。リーリエが生きている限り——燃え続ける。


 リーリエは一歩、足を前に出した。


 石が崩れ、谷底へ落ちていく。小さな音が、風に吸い込まれて消えた。


 崖の縁の土は湿っていた。昨夜の雨が地面に沁み込み、靴底が僅かに滑る。冷たい風が聖衣の袖を膨らませ、谷底から湿った空気が吹き上がってくる。苔と岩の匂い。生き物の気配のない、静かな場所だった。


 怖くはなかった。むしろ安堵があった。ようやく休める。ようやく、灼けなくて済む。


 教会の人々の顔が浮かんだ。司祭長の温かい微笑み、修道女たちの優しい声、そして彼らが決して口にしなかった真実——リーリエは「人柱」であり、消耗品であり、世界を動かすための薪であるということ。


 もう、燃え尽きてもいいだろう。


 身体が傾く。重力が聖衣の裾を引く。風が下から吹き上げて、銀灰色の髪が空に舞う。


 リーリエは目を閉じた。


 ——その手を、誰かが掴んだ。


 強い力だった。乱暴ではないが、決して離さないという意志を持った手。落下の衝撃がリーリエの腕に走り、身体が空中で止まる。


「——なっ」


 目を開ける。


 崖の縁に立つ男の姿が、逆光の中に浮かんでいた。黒い外套、黒い髪。深紅の瞳がリーリエを真っ直ぐに見下ろしている。


 引き上げられる。


 まるで木の葉でも拾うように軽々と、男はリーリエの身体を崖の上に引き戻した。


「お前が死ぬと世界が終わるんだ」


 低い声だった。感情を押し殺したような、しかしどこか切迫した響き。


「だから俺の隣にいろ」


 リーリエは地面に膝をつき、腕を掴まれたまま男を見上げた。


 深紅の瞳。人間のものではない色。けれどその目の奥に、リーリエは不思議な光を見た。怒りでもなく、憐憫でもなく——何か、もっと深い感情の残滓。


「……ありがとうございます」


 リーリエは静かに言った。


「でも、助けなくてよかったのに」


 男の眉が僅かに動いた。苛立ちか、戸惑いか。


「助けなくてよかった、だと?」


「はい。死なせてください」


 懇願ではなかった。淡々とした、日常会話の延長のような声。天気の話でもするような調子で、リーリエは死を求めた。


 男がリーリエの腕を離さないまま、じっとその目を見つめる。薄い青紫の瞳。虚ろで、焦点が合っていない。生きることを諦めた者の目だ。


「……駄目だ」


 短く、しかし揺るぎなく。


「お前は死なない。俺が死なせない」


「それは、束縛では」


「束縛だ。文句あるか」


 リーリエは少しだけ瞬いた。こんなことを言う人間に——いや、人間ではないかもしれないが——会ったのは初めてだった。教会の人々はいつも優しい顔で「お務めですよ」と微笑んでいた。聖女を慰めるためではなく、聖女に務めを続けさせるための微笑みだった。この男には微笑みの欠片もない。ただ、剥き出しの意志がある。


 不思議な人だ、とリーリエはぼんやり思った。死にたがっている相手に「束縛だ」と認めるなど、正気の沙汰ではない。


 男はリーリエの腕をようやく離すと、自分の外套を脱いでリーリエの肩にかけた。風が冷たかったのだと、その重みで初めて気づいた。


「行くぞ」


「……どこへですか」


「俺の城だ」


 言うが早いか、男の腕がリーリエの膝裏と背中を掬い上げた。抗議の声を上げる間もなく、身体が宙に浮く。


 飛んでいる。


 魔力による飛行。風が銀灰色の髪を巻き上げ、視界が一気に開けた。眼下に森が、山が、遠くに灰色の平野が広がっている。高度は崖の比ではない。ここから落ちれば確実に——


「落とさん。余計なことを考えるな」


 まるで心を読んだような言葉に、リーリエは小さく息をついた。


「魔王さま、ですか」


 黒い外套、深紅の瞳、人間離れした魔力。教会が「人類最大の敵」として語る存在の特徴と一致する。リーリエは教会の教育で、魔王の恐ろしさを何度も聞かされてきた。


 けれど今、その魔王の腕の中にいて——恐怖は感じなかった。


 恐怖を感じるほどの感情が、もう残っていなかったのかもしれない。


「そうだ。文句あるか」


「いいえ。……ご勝手にどうぞ」


 抵抗する気力はなかった。どこにいても同じだ。教会の祭壇も、崖の上も、魔王の腕の中も。どこにいても身体は灼け続ける。場所が変わっても痛みは変わらない。


 ならば、どうでもいい。


 リーリエは目を閉じた。風が頬を撫でていく。


 男の腕は温かかった。


 教会の石壁は冷たかった。祭壇は冷たかった。聖衣は冷たかった。リーリエの世界は、ずっと冷たかった。


 それなのに、この腕は温かい。


 ただそれだけが——少しだけ、崖の上と違っていた。


 意識が遠のいていく。疲労と痛みと、わずかな安堵が混ざり合って、リーリエの思考を霞ませていく。


 最後に見たのは、地平線の向こうに聳える黒い城の輪郭だった。


 遠くで、男が何かを呟いた。


「——もう、一人で死なせはしない」


 リーリエにはもう聞こえなかった。


 聞こえていたとしても——まだ、何も感じなかっただろう。


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