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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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もう一つの炎

 翌朝、二人は再び壁画の間に降りた。石段を下りる足音が地下に反響する。冷たい空気が頬に当たる。石段は磨り減っていて、何百年もの間に無数の足が踏みしめてきた痕跡が窪みとなって残っている。壁に触れると、石の冷たさが掌から腕へと伝わった。


 今度は灯火を多めに持ち込み、壁画の細部が見えるようにした。橙色の光が四方の壁を照らし、古代の絵が薄暗い地下室の中に蘇る。灯火の数が増えたことで、壁画の色彩が昨日よりも鮮明に浮かび上がった。褪せたように見えていた色の奥に、まだ生きている顔料の輝きがある。


 カインが壁画の前に椅子を二つ運び込んだ。リーリエが座り、カインも隣に腰を下ろした。肩が近い。壁画を見上げるために顔を上げると、自然と距離が縮まる。


「二つの炎だ」


 カインが壁画を見上げた。


「中央の大きな炎は明確だ。聖なる炉の炎——聖女の命を燃料として燃える結界の炎。これが世界を覆い、災厄を防いでいる。炎の大きさ、色、描かれている位置——全てが聖女の炎であることを示している」


「はい」


「問題は右下の小さな炎だ。無数の灯火。一つ一つが個別に描かれている」


 リーリエが灯火を壁画に近づけた。小さな炎の群れが、光に照らされて鮮明になる。昨日よりもよく見える。小さな灯火の中に、さらに細かい描写があった。灯火の周りに、人の姿のようなものが——描かれている。


「数えてみました。四十七あります」


「四十七」


「はい。ただ、壁画の一部が剥落しているので、本来はもっと多かったかもしれません。壁画の右端は特に損傷がひどく、少なくとも十は失われていると思います」


「つまり、本来は六十近くあった可能性がある」


「はい。そして——よく見ると、灯火の周りに人の姿のようなものが描かれています。一つの灯火に一人ずつ。人が灯火を持っているように見えます」


 カインが身を乗り出した。目を凝らす。確かに——灯火の傍に、小さな人影が描かれていた。劣化で判別しにくいが、手を伸ばして灯火を掲げているように見える。


「一つの大きな炎と、無数の小さな炎。前者は聖女の命による結界。では後者は何だ。別の燃料源か」


「別の燃料源……」


 リーリエが呟いた。目を閉じ、考え込む。左胸の紋章が微かに温かい。壁画の前にいると、紋章が反応する。聖なる炉と繋がっている証だ。


「結界を維持するのに必要なのは——燃料です。今は聖女一人の命が燃料になっている。一つの大きな炎が、一人の命で燃えている。もし、その燃料を——分散できたら」


「分散」


「一人の命ではなく、たくさんの小さな力。一人が全てを背負うのではなく、大勢が少しずつ力を出し合う。それが——この無数の灯火が表しているものだとしたら」


 カインの目が見開かれた。椅子から半分立ち上がりかけて——止まった。


「……一人の命を丸ごと燃やすのではなく、大勢の小さな力を集めて結界を維持する。そういう方法が——あるのか」


「わかりません。推測です。ただ、この壁画が二つの炎を並べて描いているということは——少なくとも初代聖女は、二つの方法が存在すると考えていたのではないでしょうか。一つは今ある方法——聖女一人が全てを背負う。もう一つは——」


「大勢で分かち合う」


「はい」


 沈黙が落ちた。灯火がちりちりと音を立て、影が壁画の上で揺れている。


 カインは壁画の中の初代聖女を見つめていた。白い衣、穏やかな微笑み、広げた両手。その手は——炉の炎だけでなく、小さな灯火の群れにも向けられている。両方を、包み込むように。


「イリス」


 カインが呟いた。初代聖女の名前を。五百年間、何万回と呼んだ名前を。


 カインの声が壁画の間に反響した。石壁が震えたように感じた。灯火の炎が大きく揺れ、影が壁画の上を走った。


「お前は——知っていたのか。別の方法があることを。炉に身を投じる前に——知っていたのか」


 壁画は答えない。微笑みを浮かべた初代聖女の絵が、灯火の光の中で静かに佇んでいる。五百年の沈黙の中で、ずっとここにいた。待っていたのかもしれない——誰かがこの壁画の意味に気づくのを。


「カインさま。この壁画を描いたのが初代聖女なら——彼女は何かを伝えようとしたはずです」


「ああ」


「炉に身を投じる前に。あるいは——身を投じなくて済む方法を、残そうとしたのかもしれません。間に合わなかったのかもしれない。方法を完成させる前に、結界の危機が来て、自分が犠牲になるしかなかった。けれど——手がかりだけは残した」


 リーリエの声に、静かな確信があった。同じ聖女としての直感——と呼ぶべきものかもしれない。


「もう一つの炎があるなら——もう一つの方法があるかもしれない」


 カインがリーリエを見た。


 薄い青紫の瞳に、微かな光があった。いつもの虚ろさとは違う光。「可能性」を見つけた人間の目。


 希望——という言葉は、まだ大きすぎるかもしれない。けれど、「何もない」と「何かあるかもしれない」の間には、天と地ほどの差がある。


「探す」


 カインが言った。


「この壁画の意味を。もう一つの炎が何なのかを。必ず見つける」


「はい」


 リーリエが頷いた。


 壁画の前で、二人は暫く黙っていた。言葉はなくとも——同じものを見つめ、同じことを考えている。「保護者と被保護者」ではなく、「共に謎に挑む二人」として。


「……カインさま」


「何だ」


「この壁画の前は——少し、温かいですね」


「地下だぞ。寒いはずだ」


「そうですか。でも——なぜでしょう」


 リーリエは壁画の初代聖女を見つめた。五百年前、この人もここに立っていたのだろうか。筆を持ち、一つ一つの灯火を丁寧に描きながら。


 炉に身を投じる運命を知りながら——それでも、別の方法を残そうとした。「もう一つの炎」を。自分は間に合わなくても、いつか誰かが気づいてくれることを信じて。


 絶望の中に灯る、微かな光。


 リーリエは壁画に向かって、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。——先輩」


 カインが目を見張った。リーリエが初代聖女を「先輩」と呼ぶのは——初めてだった。


 壁画の間を出るとき、リーリエは最後にもう一度振り返った。灯火が消えかけた部屋の中で、小さな無数の炎だけが——壁画の中で、まだ灯っているように見えた。


 あの炎が——夢の中の炎と同じものだとしたら。初代聖女の声が伝えようとしていることと、壁画のもう一つの炎が示すものが、同じ答えを指しているとしたら。


 リーリエはまだわからない。けれど——知りたい。この謎の答えを。初代聖女が遺したものを。


 知りたい、と心の底から思う。それだけで——リーリエは前に進んでいた。


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