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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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壁画の間

 城の地下には、リーリエが知らない部屋があった。階段を一段下りるごとに空気が冷たくなり、石壁から染み出す湿気が肌に張りつく。地上の暖炉の温もりは、ここまでは届かない。この城に住んで数ヶ月になるが、まだ知らない場所がある。五百年の歴史を持つ城は、広い。そして深い。


「見せたいものがある」


 カインがそう言ったのは、昼食の後だった。花茶を飲み終え、リュカが皿を下げた後。書庫でも応接室でもない——城の奥、地下へ続く石段の前。カインの表情はいつもの無愛想だったが、目に微かな緊張があった。大切なものを見せようとしている人間の目だ。


 リーリエは黙って従った。カインの背中を追って、薄暗い階段を降りていく。石壁から湿気が滲み、灯火が橙色の光を揺らしている。空気が重い。古い空気だ。何百年も閉じ込められていた空気。地上の空気とは密度が違う。時間が止まっているような——そんな重さだった。


 階段は長かった。螺旋を描きながら地下深くへ降りていく。壁の石材が古くなっていく。城の上層部とは異なる、もっと原始的な石組み。この城が建てられたときの——最初の石だ。


「ここは——」


「壁画の間だ。この城が建てられたときから在る。俺がこの城を手に入れたとき、すでにあった。誰が作ったのかはわからない。だが——初代聖女の時代のものだということは確かだ」


 カインが重い扉に手を当てた。木と鉄で補強された古い扉。錆びた蝶番が軋み、扉が内側に開く。冷たい空気が流れ出した。


 リーリエは、息を呑んだ。


 壁一面に、壁画が描かれていた。


 天井から床まで、四方の壁全てを覆う巨大な壁画。色は褪せ、ところどころ剥落しているが——それでも圧倒的だった。圧倒的な美しさと、圧倒的な悲しみが、同時にそこにあった。


 中央の壁に、一人の女性が描かれている。


 白い衣を纏い、両手を広げて立っている。長い髪が風に靡き、顔は穏やかな微笑みを浮かべている。リーリエは一目で——この人が聖女だとわかった。同じ苦しみを知る者の直感だ。その足元に——炉がある。黄金の光を放つ巨大な炉。炎が女性の身体を包むように立ち上り、天井に向かって伸びている。


「これが……聖なる炉」


 リーリエの声は囁きだった。壁画の前に立つと、自分がとても小さく感じた。壁画の中の聖女は微笑んでいる。穏やかに。美しく。けれど——その微笑みの奥に、何かを堪えているような翳りがある。


「ああ。初代聖女の時代に描かれた壁画だ。聖女が炉に命を捧げる姿——教会はこれを『崇高な昇天』と呼んだ」


 カインの声には、微かな苦味があった。「崇高な昇天」——美しい言葉だ。けれどカインは知っている。炉の中で何が起きたのかを。昇天ではなく——焼死だったことを。


 リーリエは壁画に近づいた。指で触れようとして——止めた。この壁画は古い。何百年も前のものだ。触れれば崩れるかもしれない。けれど近くで見ると、筆遣いの繊細さがわかる。聖女の髪の一本一本が丁寧に描かれ、炎の色は黄金から朱へ、朱から白へと移り変わっている。


「綺麗ですね」


「綺麗」


「はい。残酷なのに——美しく描かれています。炉に身を投じる姿を、まるで天に昇るように描いている。この壁画を見た人は——聖女の犠牲を美しいと思うのでしょう。そう思わせるために描かれたのかもしれません」


「……ああ。それが教会の狙いだ。犠牲を美化し、次の聖女にも同じ道を歩ませる」


 リーリエは壁画の細部を見ていった。壁画の左側には、結界が描かれていた。炉から立ち上る炎が世界を覆い、その外側に暗黒が蠢いている。災厄だろう。結界がなければ世界を呑み込む闇。壁画の中では禍々しい獣の群れとして描かれている。


 壁画の右側には——


 リーリエの目が止まった。


「カインさま」


 壁画の古い顔料の匂いが、地下の湿った空気に混じっている。灯火の揺れが壁面の絵に命を吹き込むように、人物たちの表情が微かに動いて見えた。


「何だ」


「この——小さな炎は何ですか」


 壁画の右下に、もう一つの炎が描かれていた。


 中央の大きな炎——聖女の命による炉の炎——とは別に。壁画の端のほうに、小さな無数の灯火が描かれている。蝋燭のような、提灯のような、星のような——無数の小さな光が、一つの大きな炎とは別に、点々と輝いている。壁画の中で、災厄の闇を押し返すように。


 カインが壁画に近づいた。深紅の瞳が、小さな灯火の一つ一つを追う。


「……わからない」


 カインの声が低くなった。


「この壁画は何度も見た。五百年の間に何度も。だが——この小さな炎には、注目していなかった。装飾だと思っていた。背景の一部だと」


「装飾にしては、丁寧に描かれています。一つ一つ——形が違います。同じものを繰り返し描いたのではなく、それぞれ別のものとして描いている。意味のない装飾なら、こんな手間はかけません」


 リーリエの観察は正確だった。小さな灯火は、確かに一つ一つ形が異なっていた。丸いもの、尖ったもの、揺れているもの、静かに灯っているもの。まるで——一人一人が違うように。


「これは……」


 カインが言葉を呑んだ。


 二つの炎。一つは巨大で、聖女の命を燃料とする炉の炎。もう一つは小さく、無数に散らばる灯火。


 壁画を描いたのは——誰だ。なぜ二つの炎を並べたのだ。


「カインさま。この壁画を描いたのは——初代聖女ですか」


「……おそらくは。この城は初代聖女の時代に存在した建物だ。壁画の様式も、その時代のものだ」


「初代聖女が——何かを伝えようとしたのではないでしょうか」


 リーリエの声に、微かな興奮があった。普段の平坦さに、僅かな熱が混じっている。


 壁画の前で、二人は並んで立っていた。肩と肩が——触れそうで触れない距離。同じものを見つめている。同じ疑問を抱いている。


 壁画の中の初代聖女が、微笑んでいる。その微笑みの先に——もう一つの炎がある。


 何を伝えたかったのか。答えは、まだ見えない。


「明日もう一度、ゆっくり見ましょう」


「ああ」


 二人は壁画の間を出た。重い扉が閉まり、古い空気が再び封じられた。


 階段を上りながら、リーリエは振り返った。扉の向こうに——初代聖女の壁画がある。そしてもう一つの炎がある。


 何かが——始まろうとしている。


 壁画に描かれた初代聖女。もう一つの炎。そしてリーリエの夢に現れる声。それらが——一つの線で繋がろうとしている。まだ見えない。まだ形を持たない。けれど予感がある。この城の地下に眠る古い記憶が、リーリエを呼んでいる。


 階段を上りながら、リーリエの左胸の紋章が微かに熱を帯びていた。壁画の中の炎に呼応するように。共鳴している。何かと。どこかと。五百年の時を超えて——何かが、動き始めている。


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