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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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大司教の手紙

 書簡は、鷹が運んできた。朝の城壁に鷹の翼が影を落とし、鋭い鳴き声が冬の空に響いた。リュカが鷹を受け止め、脚に結わえられた銀の筒を外す。鷹の羽根から冷たい風の匂いがした。


 教会の紋章が刻まれた銀の筒。鷹の脚に結わえられていたそれを、ヴェルナーが受け取り、カインに届けた。中に巻かれた羊皮紙は上質で、文字は端正な書体だった。一文字の乱れもない。教会の書記官の仕事だ。封蝋には大司教の個人紋——十字と天秤。正義を計る天秤。その天秤に乗せられるのが、聖女の命だということを、この紋章の主は知っている。


 カインが封を切った。蝋が割れる乾いた音がした。その音が、静かな書斎に不吉に響いた。


 リーリエは執務室の隅の椅子に座り、カインが書簡を読むのを見ていた。読み進めるにつれて、カインの眉間の皺が深くなっていく。顎の筋肉が強張り、拳が無意識に握りしめられている。


「読むぞ」


 カインが声を出して読み始めた。


「『魔王カイン殿。大司教グレゴリウス・ヴァン・オルデンの名において、以下を通達する。世界の結界は、聖女の不在により日々弱体化を続けている。各地で被害が拡大し、民の不安は頂点に達している。聖女の帰還なくして世界の存続はない。教会は聖女の安全な帰還を求める。この要求に応じない場合、世界を守るためのあらゆる手段を講じることを、ここに明言する。なお、この書簡は各国の元首にも同時に送付していることを付記する』」


 カインが書簡を机に置いた。叩きつけるように。


「丁重だな。殺す気満々の文面を、ここまで丁重に書けるのは才能だ」


 リーリエは黙っていた。カインが書簡をもう一度手に取り、紙面を睨んだ。文字の一つ一つを、証拠品を検分するように確認している。


「ヴェルナー」


「はい」


「この書簡に、リーリエの名前は何回出てくる」


 ヴェルナーが書簡を確認した。眼鏡の奥の目が、一行ずつ追っていく。


「……一度も」


「ああ。一度もだ。『聖女』としか書いていない。百五十文字の中に、リーリエの名前が一度も出てこない」


 カインの声が、低く唸った。怒りの唸りだ。


「こいつにとってリーリエは人間じゃない。機能だ。結界を維持するための部品。名前なんか必要ない。型番があれば十分なんだ。『聖女第十三号、結界維持装置、故障中につき回収を求む』——書簡の意味を翻訳すると、そうなる」


 カインが立ち上がった。書簡を握りしめ、窓に向かって歩く。深紅の瞳が怒りに燃えている。


「五百年前も同じだった。教会にとって聖女は資源だ。命に名前がない。顔がない。ただ燃やすだけの燃料だ。そして燃え尽きたら、次の燃料を探す。それだけだ」


 リーリエが口を開いた。


「教会にとって、私はずっとそうでした」


 カインが振り返った。


「覚醒の日から——いいえ、教会に引き取られた日から。私は『聖女候補七番』でした。七番。名前ではなく、番号で管理されていました。名前で呼ばれることもありましたが、公文書には常に番号が記されていました。食事の配膳表にも、訓練の記録にも。七番、七番、七番」


 リーリエの声は淡々としていた。驚きはない。期待もない。教会に対する幻想は、とうに消えている。あるいは——最初からなかったのかもしれない。


「聖女になってからは、もっとそうです。『リーリエ』と呼ぶ人は——教会には一人もいませんでした。聖職者も、侍従も、聖騎士も。全員が『聖女様』と呼びました。個人名は——不要だったのです」


 カインが歩み寄った。リーリエの前に立ち、見下ろす。深紅の瞳に、怒りと——もう一つ、柔らかい何かが混じっている。


 カインの深紅の瞳が蝋燭の光を受けて揺れた。声は低く、けれど確かだった。


「俺はお前を名前で呼ぶ」


 リーリエが目を上げた。


「リーリエ」


 カインの声は低く、はっきりとしていた。


「お前は聖女じゃない。リーリエだ。名前がある。顔がある。好きな花茶がある。朝は寝起きが悪い。リュカの焼き菓子を気に入っている。マリカのスープが好きだ。フィルの頭を撫でるのが上手い。——お前は人間だ。機能じゃない」


 リーリエの瞳が、揺れた。


 名前を呼ばれることは、魔王城に来てから当たり前になっていた。カインも、リュカも、マリカも、ヴェルナーも——みな「リーリエ」と呼ぶ。それが当たり前だと思い始めていた。空気のように。


 けれど今——大司教の書簡の冷たさと並べると、「名前を呼ばれる」ことの重さが際立った。当たり前ではなかったのだ。それは——この城の人々が、意識してリーリエを「人間」として扱ってくれているから。


「……ありがとうございます」


 リーリエは目を伏せた。まつげの影が頬に落ちる。


「名前を呼んでいただけることが——こんなに嬉しいことだとは、思いませんでした」


 カインの表情が一瞬だけ——柔らかくなった。口元が微かに緩み、眉間の皺が消えた。すぐに元の無愛想に戻ったが、リーリエはその一瞬を見逃さなかった。見逃さなかったが——何も言わなかった。


 ヴェルナーが咳払いをした。空気を読んだ咳払いだ。


「書簡への返答はいかがいたしますか」


「返答はしない。返事をすること自体が、教会の外交戦略に乗ることになる。返答すれば対話の余地があると見做される。沈黙が最善だ」


「承知しました」


 カインが書簡を畳み、机の引き出しにしまった。


「だが覚えておけ。大司教は手紙の次に軍を送ってくる。丁重な言葉の次は、刃が来る。それが教会のやり方だ。言葉で駄目なら力で。順番は必ずそうなる。準備を怠るな」


 ヴェルナーが出ていった。部屋にカインとリーリエが残った。


 リーリエは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。遠く、教会の聖都がある方角。そこから——冷たい風が吹いてくるような気がした。


「カインさま」


「何だ」


「もう一度——名前を、呼んでいただけますか」


 カインが目を見開いた。一瞬、固まった。それから——視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。


「リーリエ」


 たった四文字。けれどその四文字は——大司教の百五十文字より、ずっと重かった。大司教はリーリエを「聖女」としか呼ばなかった。名前を呼ばなかった。名前を呼ぶということは、相手を一人の人間として認めるということだ。


 カインは——いつも名前を呼ぶ。リーリエ。四文字。たったそれだけのことが、どれほど大きな意味を持つか。


 リーリエは書簡を畳み、カインに返した。「聖女の帰還」という言葉が紙の上に並んでいる。しかしリーリエの耳には、カインの「リーリエ」だけが残っていた。名前で呼ばれること。それだけで——自分がまだ人間であると思える。道具ではなく、燃料ではなく、一人の人間だと。


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