お前が犠牲になる必要はない
カインは、門の前にいた。夜の冷気の中で、黒い外套が風に揺れている。吐く息が白い。星が出ている。冬の空は澄み渡り、星々が手が届きそうなほど近くに見えた。カインが教えてくれた冬の女王座が、空の高い位置で光っている。
リーリエより先に。
正確には、リーリエが食堂を出た時点で気づいていた。食器を置く音が普段と違った。静かすぎた。表情を見ればわかる。あの虚ろな目、血の気の引いた頬、指先の震え——自己犠牲の淵に立っている人間の顔だ。五百年前にも、同じ顔を見た。初代聖女が炉に向かう直前——あのときと、同じ目だった。
だから門の前で待っていた。リーリエが来ることを——わかっていた。この城の出口は一つしかない。出て行くならここしかない。
リーリエがしゃがみ込んでいるのを見つけたとき、カインの胸に走ったのは怒りではなかった。痛みだった。五百年前の記憶が、一瞬で蘇る。炉の前で跪いていた白い背中。伸ばした手が届かなかった。あのときの無力さが——今、胸を焼いている。
「どこへ行く気だ」
声をかけた。低い声。怒りではなく——心配の声。声が震えなかったのは、意志の力だ。
リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳が、夜の闇の中でぼんやりと光っている。涙はない。ただ——空っぽだった。感情が全て抜け落ちた、虚ろな目。
「カインさま」
「ああ。ここにいた」
「……なぜ、ここに」
「お前がここに来ると思ったからだ」
リーリエが目を伏せた。見透かされていたことへの——恥ずかしさだろうか。それとも安堵だろうか。おそらくその両方だ。
「私が戻れば——」
「言うな」
カインが遮った。一歩、リーリエに近づく。暗闇の中で、深紅の瞳だけが燃えるように光っている。
「お前が犠牲になる必要はない」
「でも、人が死んでいます。結界が弱まって、魔物が——」
「知っている。報告は俺のところにも来ている。北方で三名、東部で家屋が壊れた。知っている。だが、お前を差し出しても問題は解決しない」
カインの声は低く、しかし明瞭だった。一語一語を、杭を打ち込むように。
「お前が炉に戻れば、結界は一時的に安定するだろう。だがお前の命が尽きれば、また同じことが起きる。次の聖女が見つかるまで——あるいは永遠に。同じことの繰り返しだ。十二人の聖女が同じ道を辿った。十三人目を増やしてどうする」
リーリエが唇を噛んだ。白い唇に歯の跡が残った。
「でも——今、苦しんでいる人たちは」
「俺が方法を見つける」
カインの声は、揺るぎなかった。
「お前を犠牲にしない方法を。世界を守る別の道を。必ず見つける」
「……方法があるのですか」
「まだわからない。だが壁画に描かれていた。もう一つの炎。お前の夢に現れる声。手がかりはある。何もないわけじゃない。五百年間——何も見つからなかった。だが今は違う。壁画がある。夢がある。お前がいる」
リーリエが顔を上げた。カインの目は——本気だった。深紅の瞳が夜の闇の中で燃えるように光っている。「必ず」と言い切るだけの意志が、そこにあった。根拠のない約束ではない。五百年間の探求と、ここ数日の発見に基づいた、意志の表明。
何の保証もない。「方法」が見つかる確証はどこにもない。けれど——この人は、見つけると言っている。五百年間、探し続けてきた人が。一度失敗し、全てを失い、それでも諦めなかった人が。
リーリエの身体から、力が抜けた。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。門に向かおうとしていた意志が、溶けていく。自己犠牲の論理が——カインの言葉に、押し返されていく。代わりに——安堵が、全身を浸した。温かい波のように。
「……止めてくれる人がいるのですね」
リーリエの声が、震えていた。冷たい夜気が喉を刺し、言葉が白い息になって消えていく。
「教会では——誰も、止めてくれなかった。『崇高な使命です』と言って、送り出すだけだった。『頑張りなさい』と。『世界のために』と。背中を押す手ばかりだった。止めてくれる人が——いなかった」
カインが息を呑んだ。リーリエの言葉が、五百年前の自分に重なった。あのとき——カインも、イリスを止められなかった。背中を押しはしなかったが、止められもしなかった。その後悔が、五百年間カインを縛ってきた。
「ここには、いるのですね。止めてくれる人が」
「当たり前だ」
カインの声が荒くなった。照れ隠しのような、怒りのような。自分の感情を持て余しているような。
「お前は俺の——」
言葉が詰まった。「俺の」——何だ。贖罪の対象か。守ると誓った相手か。それとも——
「あなたの?」
リーリエが、小さく首を傾げた。虚ろだった目に、微かな光が戻っている。
「……俺が守ると言った。それだけだ」
カインは視線を逸らした。夜空を見上げ、重い雲を睨む。耳が——赤い。暗闇の中では見えないはずだが、カインは自分の耳が熱いことを自覚していた。
リーリエは、その横顔を見ていた。
止めてくれる人。引き留めてくれる人。「行くな」と言ってくれる人。
教会にはいなかった。親にもいなかった。この人は——引き留めてくれる。
「……ありがとうございます」
リーリエは立ち上がった。膝が少し笑っていたが、立てた。門には——手を伸ばさなかった。もう、伸ばさなかった。
「戻ります。部屋に」
「ああ。行け。……明日の朝、花茶を淹れておく」
「……はい」
リーリエが歩き出す。数歩進んで、振り返った。夜風が銀灰色の髪を揺らしている。
「方法——見つかるといいですね」
「見つける」
「はい」
リーリエが城の中に消えていく。足取りは、門に向かっていたときよりも——確かだった。
カインは門の前に残り、暫く夜空を見上げていた。
「俺の——」
口の中で呟いた。続きは出てこなかった。
わからない。贖罪か。義務か。それとも——
夜風が吹いた。冷たい風の中に、リーリエが歩いていった方向から、微かに蜂蜜の匂いがした。さっきの夜食の名残だろう。
カインは門を背に、城に戻った。廊下を歩く足音が石壁に反響する。リーリエの足音はもう聞こえない。自室に戻ったのだろう。
書斎に入り、椅子に座った。蝋燭に火をつけようとして——やめた。暗い部屋で、暗いまま座っていた。
自己犠牲の誘惑を断ち切れた。今日は。しかし明日は? 結界が更に弱まり、被害の報告が更に増えたら? リーリエの罪悪感が限界を超えたら? カインの言葉だけで止められるのか。今日はたまたま間に合った。次も間に合う保証はない。
今夜も——きっと眠れそうにない。けれど、一人ではない。星が静かに瞬いている。




