私が戻れば
報告は、朝食の席で届いた。食卓にはマリカが焼いたパンの香ばしい匂いと、花茶の甘い蒸気が漂っていた。温かい朝のはずだった。パンを手に取ろうとしていたリーリエの手が、止まった。
ヴェルナーが書簡を手に入ってきた。顔色が悪い。ヴェルナーの顔色が悪いということは、内容が悪いということだ。この男は内容に動じない。動じるのは、その内容がリーリエに与える影響を予測したときだけだ。
「北方の主要街道で魔物の襲撃がありました。結界の薄い地域です。商隊が被害を受け、死者三名。重傷者七名」
食堂が静まった。リュカの手が止まり、マリカが息を呑んだ。フィルだけが状況を理解できず、きょとんとしている。
「結界弱体化による侵入と見られます。北方の結界柱から五十里ほどの地点です。結界が薄い場所に集中して魔物が出現しています。さらに——東部の村でも小規模な襲撃が報告されており、家屋の損壊がありました」
リーリエは、スプーンを置いた。
音がした。金属が陶器に当たる小さな音。それだけなのに、食堂の全員がリーリエを見た。リーリエの手が——震えていた。微かに。スプーンを持ち続けられなかったのだ。
「……死者が出たのですね」
「はい。北方で三名。東部でも——」
「私がここにいるから」
リーリエの声は、いつもの静かな声だった。感情のない、平坦な声。けれどその平坦さの下に、何か重いものが沈んでいた。鋼鉄の蓋の下で、何かが沸騰している。
マリカが一歩前に出た。
「リーリエ様——」
「大丈夫です。お話を続けてください」
大丈夫ではなかった。リーリエは自分でわかっていた。心臓が、速い。指先が冷たい。頭の中で数字が回り始めている。三名。七名。使者が持ってきた百三十名。数字が——増え続けている。積み重なっていく。リーリエがここにいる限り、数字は増え続ける。
食事の後、リーリエは自室に戻った。
寝台に座り、膝を抱えた。窓の外に青空が広がっている。穏やかな朝だ。この城の中は平和だ。フィルが庭で遊ぶ声が聞こえる。リュカが何か軽口を叩いて笑っている。マリカが洗い物をしている水音がする。
けれど——この城の外で、人が死んでいる。
結界が弱まっているから。
聖女がここにいるから。
私が——ここにいるから。
思考が、渦を巻き始めた。
私が教会に戻れば、結界は安定する。結界が安定すれば、魔物は侵入しない。魔物が侵入しなければ、人は死なない。
単純な論理だ。残酷なほどに単純な。
私一人が我慢すれば、皆が助かる。
大司教の声が、頭の中に蘇った。『聖女は世界の礎です。あなたの犠牲は、万人の命を救います』。教会で何度も聞いた言葉。聖女教育の中核にある思想。最初は美しいと思った。崇高だと思った。自分の命に意味があると——そう信じられた時期もあった。やがて空虚になった。「意味がある」のは命ではなく、燃料としての価値だと気づいたから。
けれど今——空虚なはずの言葉が、再び重みを持ち始めている。
使者の声も蘇る。『百三十名の被害者は、今この瞬間も増えています。あなたのご決断が、多くの命を救います』。
数字が、止まらない。三名。七名。百三十名。百五十名。二百名。もっと増えるだろう。私がここにいる限り。毎日、どこかで。知らない人が。名前も知らない誰かが。
リーリエは立ち上がった。椅子が床を擦る音が食堂に響き、全員の視線が集まった。
部屋を出て、廊下を歩いた。足が勝手に動いている。思考が命令しているのではない。身体が——教会に戻ろうとしている。二年間の習慣が、身体に染みついている。「犠牲になれ」という声に従う習慣が。
階段を下り、広間を横切り、城の出口に向かう。従者とすれ違ったが、リーリエの表情を見て声をかけられなかったようだ。虚ろな目。焦点の定まらない瞳。あの日——崖から身を投げたときと、同じ目をしているのかもしれない。
門の前に立った。
大きな門。黒い鉄の門扉。この向こうが——外の世界だ。教会の待つ世界。結界が弱まり、人が苦しんでいる世界。私を待っている世界。私の命を——燃料として。
私が戻れば——
手を伸ばした。門の取っ手に触れようとした。冷たい鉄。指先がその冷たさを感じた。
——足が、動かなかった。
手は伸びている。取っ手はすぐそこにある。けれど足が——一歩も動かない。
「戻りたくない」
声は、自分の口から出た。囁くような、消え入りそうな声。風に散ってしまいそうな、小さな声。
戻りたくない。あの場所に。あの痛みの中に。あの孤独の中に。
教会には何もなかった。名前で呼んでくれる人がいなかった。夜食を持ってきてくれる人がいなかった。「お前のせいではない」と言ってくれる人がいなかった。「ここにいてくださいね」と言ってくれる人がいなかった。
ここには——ある。
カインがいる。リュカがいる。マリカがいる。ヴェルナーがいる。フィルがいる。温かいスープがある。焼き菓子がある。花茶がある。朝の光がある。庭の花がある。笑い声がある。
戻りたくない。
けれど——人が死んでいる。
二つの声が、頭の中でぶつかり合っていた。「戻りたくない」と「戻るべきだ」。自分の願いと、世界の苦しみ。どちらも本当だ。どちらも——正しい。どちらかを選べば、もう一方が壊れる。
リーリエは門の前に立ち尽くしていた。
手は伸びたまま。足は動かないまま。進むことも退くこともできない。身体が——引き裂かれそうだった。
どれほどそうしていただろう。月が雲に隠れ、また現れた。夜風が何度も吹いた。
冷たい風。けれど背中のほうから——微かに、温かい気配がした。
城の灯り。窓から漏れる、黄色い光。誰かがまだ起きている。
リーリエは手を下ろした。取っ手には触れなかった。
門の前にしゃがみ込み、膝を抱えた。冷たい石の床が膝を冷やす。夜風が頬を刺す。そして背中に——温かい光が当たっている。城の窓から漏れる灯火の光。マリカがまだ台所にいるのだろう。リュカが暖炉に薪をくべたのだろう。カインが書庫で蝋燭を灯しているのだろう。
温かい光。背中に当たる、温かい光。
戻れば——あの光の中に。戻れば——温かいスープがあり、不器用な「食え」があり、「お嬢、大丈夫っすか」という声がある。戻れば——カインの手が、温かい。
私が戻れば人々が助かる。けれど私が戻れば——この温かさを失う。
どちらが正しいのか、わからない。わからないまま——膝を抱えて、震えていた。
涙は出なかった。声も出なかった。ただ——全身が震えていた。冷たい風と、温かい光の間で。




