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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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密偵の影

 異変に気づいたのは、ヴェルナーだった。冬の朝は空気が澄んでいて、音がよく響く。石の廊下に反響する足音一つで、その人物の感情が読み取れるほどに。朝の書庫に、いつもより早い足音が響いた。ヴェルナーの足音は通常、正確で均一だ。それが今朝は——速い。急いている。


「旦那様。領の境界に不審な動きがあります」


 朝の報告。ヴェルナーの声はいつも通り冷静だったが、眼鏡の奥の目には鋭い光があった。地図を広げ、指で境界線の数箇所を示した。


「境界の南東——森の中に、三つの気配を確認しました。昨夜から動いています。方向は一定ではなく、領内を偵察するような軌道です。円を描くように移動し、要所を記録している」


「人間か」


「おそらくは。魔力を感じません。魔族ではない。装備も軽く、戦闘を目的とした動きではありません。情報収集に特化した動きですな」


 カインが窓の外を見た。朝霧が魔王領の森を覆っている。あの霧の向こうに、教会の目がある。


「一つだけか」


「いえ。南東に三つ。北西にも二つ。東にも一つ。少なくとも六名が、同時に複数の方向から侵入しています。配置に規則性がある。城を中心とした放射状の偵察網です」


「六名。一人では不審者、六名なら——」


「組織的な偵察活動ですな。しかも放射状の配置は軍事偵察の基本形です。城の位置と防衛の弱点を特定し、後続の軍に報告する。攻撃の前段階と見るのが妥当です」


 教会の密偵だ。カインには確信があった。世論操作で外堀を埋め、経済制裁で物資を断ち、次は内部の情報を集める。段階的に締め上げてくる。教会のやり方だ。五百年前から変わらない。


「目的は」


「リーリエ様の居場所の特定と思われます。教会は聖女がこの城にいることを推定していますが、正確な位置は把握していない。密偵は城の防衛体制と聖女の生活動線を確認しようとしているのでしょう。加えて、結界の二重構造の仕様も調べているかもしれません」


 カインが椅子から立ち上がった。


「排除する」


「承知しました。しかし旦那様、密偵を殺すと教会に口実を与えます。『魔王が教会の使者を殺害した』と喧伝される」


「殺さない。捕まえる。だが——情報を持ち帰らせるわけにはいかない。通信具も没収しろ」


 カインは従者たちに指示を出した。リュカが境界の南東を担当し、ヴェルナーが北西を指揮する。カイン自身は東の密偵を追った。


 森の中を音もなく進む。五百年の経験が、カインの身体を影のように動かした。木の根を踏まず、枝を揺らさず、風の音に紛れて近づく。人間の密偵には、カインの気配を察知する術がない。


 東の密偵は——若い男だった。二十代前半か。教会の法衣ではなく、旅人の格好をしている。よく出来た偽装だ。しかし靴底の減り方が一般の旅人とは違う。軍靴の歩き方が染みついている。元兵士か、あるいは現役の。


 所持品の中に、教会の紋章が刻まれた小さな通信具があった。魔力を帯びた石——遠隔通信用のものだ。教会の上層部にしか支給されない高位の術具。


「聖女の居場所を確認せよ、か」


 捕縛した密偵を尋問すると、命令はそれだけだった。聖女の正確な居場所、魔王の戦闘力の推定、城の防衛体制。それらを確認し、通信具で報告せよ。


「誰の命令だ」


 密偵は答えなかった。口を閉じ、視線を逸らす。しかし答えは明白だった。大司教の命令以外にあり得ない。教会の密偵網を動かせるのは、大司教グレゴリウスただ一人だ。


 日が高くなる頃には、六名の密偵のうち四名を捕縛した。残る二名は領外に逃走した。リュカが追ったが、森の外に出たところで見失った。


 窓の外で風が唸り、城壁に砂埃を叩きつけている。


「逃した二名は——」


「確認しきれなかった情報があるかもしれませんな。城の大まかな方角は掴まれた可能性があります」


 ヴェルナーの報告に、カインは顎を引いた。


「居場所は確認させていない。だが——もう時間の問題だ。密偵を何度送り込まれても、全て捕まえ続けることはできない。いずれ正確な位置が割れる」


 教会は本気で動いている。偵察から実力行使まで、そう遠くない。


 ——夕刻、カインはリーリエに密偵のことを伝えた。


 隠すことも考えた。だが隠したところで、リーリエは気づくだろう。朝から従者たちが慌ただしく動き回り、城の警戒が強化されたことに、もう気づいているはずだ。


「教会の密偵が来た。お前を見つけようとしている」


 リーリエは庭のベンチに座っていた。膝の上に名簿を広げたまま、カインの言葉を聞いた。夕日がリーリエの銀灰色の髪を金色に染めている。


「……そうですか」


「四名は捕まえた。だが二名が逃げた。城の正確な位置は渡していないが、方角は割れている」


「逃げても追ってくるのですね」


「ああ。教会は諦めない」


 リーリエの声は淡々としていた。けれど——どこかに、疲れがあった。追われ続けることへの疲弊。教会にいても追い詰められ、教会を出ても追いかけられる。どこにいても——聖女である限り、逃げられない。


「逃げる必要はない」


 カインが言った。リーリエの隣に——座りはしない。少し離れて立ち、腕を組んだまま。夕日を背にしたその姿は、巨大な影のようだった。


「ここが、お前の場所だ」


 リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳が、カインの深紅の瞳を見つめる。


「……場所」


「ああ。お前が選んだ場所だ。俺が守る。逃げる必要はない」


 リーリエは暫く黙っていた。名簿の上に視線を落とし、再びカインを見上げる。


「不思議ですね。追われているのに——ここにいると、安心します」


 カインの腕が僅かに強張った。


「……当然だ。ここは俺の城だ。何人たりとも、勝手には入れない」


 ぶっきらぼうな声だった。けれどリーリエは——微かに、口元を緩めた。笑みとは言えない。けれど「無」ではなかった。


 庭の向こうに、夕日が沈んでいく。橙色の光が城壁に当たり、石が金色に染まっている。この人たちには——逃げる場所があっただろうか。守ってくれる人が、いただろうか。聖女として選ばれた瞬間から、逃げ道は塞がれていた。家族は引き離され、友人は遠ざけられ、「崇高な使命」という名の牢に閉じ込められた。自分と同じように。


 名簿の名前が——重い。十二人分の重さが、リーリエの胸に沈んでいる。けれどその重さを、一人で背負っているのではない。カインがいる。ヴェルナーがいる。リュカとマリカがいる。


 密偵のことは、カインたちに任せよう。この人たちを信じることにした。リーリエにできることは——名簿の聖女たちの名前を、忘れないこと。彼女たちの沈黙を、受け止めること。それが今の、リーリエにできる全てだった。


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