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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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自分もまた

 夜が更けても、リーリエは眠れなかった。窓の外は曇っていて、月明かりもない。部屋は暗く、蝋燭の残り火だけがぼんやりと壁を照らしている。


 寝台の上に座り、膝の上に名簿を広げている。灯火を絞った暗い部屋の中で、名前を一つずつ指でなぞった。


 イリス。エルゼ。アネリーゼ。ブリギッテ。ゾフィー。マルガレーテ。カタリーナ。ヘルミーネ。エリーザベト。


 この人も、痛かっただろうか。


 全身を灼かれるような鈍痛——聖女の覚醒と共に始まり、死ぬまで止まらない痛み。リーリエは二年間、その痛みの中で生きてきた。慣れることはない。ただ——感覚を閉じることで、やり過ごしているだけだ。痛みは消えない。消えたように見えるのは、感じる力を自分で殺しているからだ。


 この人たちも、同じだっただろうか。


 眠れない夜があっただろうか。天井を見つめて、「いつ終わるのだろう」と考えただろうか。泣いただろうか。誰かに助けを求めただろうか。それとも——リーリエのように、静かに諦めただろうか。


 ゾフィーは十七歳で死んだ。リーリエと同い年だ。在任二年。覚醒してから二年で命が尽きた。消耗が速かったのだろう。身体が弱かったのかもしれない。あるいは——教会の管理技術がまだ未熟で、燃料の消費を制御できなかったのかもしれない。


 どちらにしても、結果は同じだ。十七歳の少女が死んだ。


 名簿の数字は何も語らない。十七歳。十九歳。二十一歳。数字の向こうに、どんな人生があったのか。好きな食べ物はあったか。好きな花はあったか。窓の外の景色を、どんな気持ちで眺めていたか。


 わからない。永遠にわからない。教会が全てを消したから。名前すら消し、墓標すら残さず——存在ごと闇に葬った。


 リーリエは名簿を閉じ、目を閉じた。


 不思議な感覚があった。


 孤独が——少しだけ、薄くなっている。


 ずっと思っていた。自分だけが苦しんでいると。聖女という名の人柱は自分一人で、この痛みを知る者は誰もいないと。カインは優しい。リュカは明るい。マリカは温かい。けれど——この痛みは、わからないだろう。わかるはずがない。聖女の紋章が胸に灼きつけられた者でなければ。


 けれど今、名簿が教えてくれた。


 仲間がいた。


 自分より前に、同じ苦しみを味わった人たちがいた。同じ痛みに耐え、同じ絶望に沈み、同じように若くして命を奪われた人たちが。彼女たちの声は消されたが、確かにそこにいた。確かに——生きていた。


 それは慰めなのか——それとも、より深い絶望なのか。


 リーリエにはわからなかった。ただ——「一人ではなかった」という事実が、胸の奥の凍りついた何かを微かに溶かしていた。凍土の下に流れる地下水のように、見えないけれど——確かに、何かが動いている。


 同時に、別の感情が芽生えている。


 静かな——怒り。


 リーリエは怒りを知らない。教会では怒ることを許されなかった。怒りは不遜であり、不敬であり、聖女にあるまじき感情だと教えられた。「聖女は穏やかであれ」「聖女は全てを受け入れよ」——そう繰り返し聞かされた。だからリーリエの中に怒りの回路はない——はずだった。


 けれど今、名簿の数字を見て、微かに胸が熱くなっている。


 十七歳で死んだゾフィー。リーリエと同い年だ。もしリーリエが教会に戻れば、ゾフィーと同じ運命を辿る。そしてリーリエの後に聖女が現れたなら——その子も同じ苦しみを味わう。同じように名前を消され、同じように墓標のない死を迎える。


 何度繰り返すのだろう。何人、同じ運命を辿るのだろう。


 この制度は——許されるのだろうか。


 リーリエは自分の感情に戸惑っていた。怒りの形を知らないから、それが怒りだと認識できない。胸の奥が熱い。鈍痛とは違う熱さ。不快ではない。けれど——慣れない。まるで長い冬の後に、初めて春の日差しを浴びたときのような。眩しくて、痛くて、でも——温かい。


 扉を叩く音がした。


「リーリエ」


 カインの声だった。リーリエが「はい」と答えると、扉が開き、カインが盆を手に入ってきた。温かい飲み物と、小さな焼き菓子。蜂蜜入りの牛乳の甘い匂いが漂ってくる。


「まだ起きていたか」


「……はい」


 カインが灯火の傍に盆を置いた。湯気が立ち上り、部屋の冷えた空気を温める。


「何を考えていた」


「この人たちのことを」


 リーリエが名簿を示した。カインの深紅の瞳が、一瞬だけ痛みに揺れた。すぐに元の無表情に戻ったが、リーリエはその揺れを見逃さなかった。この人も——痛いのだ。五百年分の痛みを、背負っている。


「……そうか」


「カインさま。この人たちも、痛かったのでしょうか」


「ああ。おそらくは」


「泣いたのでしょうか」


「……わからない」


「そうですか」


 リーリエは温かい牛乳を受け取った。両手でカップを包み、指先を温める。蜂蜜の甘さが、冷えた身体に染みた。


「不思議です」


「何がだ」


「怒りに——似たものを、感じています」


 カインが目を見張った。リーリエが「怒り」という言葉を使うのは、初めてだった。


「この制度を——許してはいけないのではないかと。この人たちを殺し続けてきたこの仕組みを——誰かが、止めなければいけないのではないかと」


 リーリエの声は、まだ淡々としていた。けれど——言葉の選び方が変わっている。「仕方がない」ではなく「許してはいけない」。「運命」ではなく「仕組み」。受け入れるのではなく、拒絶する方向に——言葉が動き始めている。


 カインは暫く黙っていた。それからリーリエの頭に——軽く、手を置いた。大きな手。温かい手。


「覚えていてやれ。お前にしかできない」


「……はい」


 リーリエは牛乳を啜り、焼き菓子を一口齧った。甘かった。リュカの菓子はいつも少しだけ焦がしすぎるが、その苦味が蜂蜜の甘さを引き立てる。こんな時間にこんなものを食べているのは——きっと、良くないのだろう。けれど美味しかった。


 カインが部屋を出ていく前に、振り返った。


「明日も名簿を見るか」


「はい。もう少し——この人たちのことを、知りたいです」


「わかった。手伝う」


 扉が閉まった。


 リーリエは名簿を枕元に置き、灯火を消した。暗闇の中で、温かい牛乳の余韻が舌の上に残っていた。


 怒りの芽は——まだ小さい。けれど確かに、そこにある。凍結した感情の下で、微かに熱を持ち始めている。


 歴代聖女たちの名前を胸に抱いて、リーリエは目を閉じた。十二の名前。十二の人生。教会に消された、十二の存在。リーリエはその名前を全て覚えた。忘れない。絶対に忘れない。それが——今のリーリエにできる、最低限の弔いだった。


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