記録の断片
名簿が、出来上がった。書庫の空気が冷たく、吐く息が微かに白い。インクがまだ乾ききっていない。羊皮紙の表面に、ペン先が残した微かな溝が光を受けて浮かんでいる。歴代聖女の名前と生没年の一覧。たった一枚の羊皮紙に、五百年分の犠牲が凝縮されている。
三日三晩をかけて、カインとヴェルナー、そしてリーリエの三人が、消された頁の周辺テキストと別の文献、カイン自身の記憶を照合した結果だ。書庫の机は文献と書き付けで埋め尽くされ、空になった花茶のカップが三つ並んでいた。
カインがインクを乾かし、一枚の羊皮紙を机の上に広げた。
「これが——歴代聖女の名簿だ」
書庫の灯火が、紙面を照らしている。ヴェルナーが眼鏡を外し、目を擦った。徹夜の作業で目が充血している。普段は隙のない男だが、さすがに疲れの色が隠せない。
「全てではありませんが、判明した限りの記録です。名前、在任開始年、死亡年。断片的な情報を繋ぎ合わせた結果ですので、誤差はあるかもしれません。しかし大筋は——間違いないでしょう」
カインが名簿を読み上げた。
「初代聖女——イリス。在任年数、一年。死亡時年齢、十八歳」
最初に読んだ名前で、カインの声が僅かに震えた。イリス。五百年前、カインの目の前で炉に身を投じた女性。彼女の死から、全てが始まった。五百年の歳月が経っても、その名前を口にするだけで胸が軋む。
「第二代聖女——エルゼ。在任年数、六年。死亡時年齢、二十一歳」
「第三代聖女——アネリーゼ。在任年数、四年。死亡時年齢、十九歳」
「第四代聖女——ブリギッテ。在任年数、九年。死亡時年齢、二十四歳」
「第五代聖女——ゾフィー。在任年数、二年。死亡時年齢、十七歳」
名前を読み上げるたびに、書庫の空気が重くなった。数字が積み重なっていく。十八歳。二十一歳。十九歳。二十四歳。十七歳。一つ一つは短い人生の終わりを示す冷たい数字だ。
カインはさらに続けた。
「第六代——マルガレーテ。在任五年。死亡時年齢二十歳。第七代——カタリーナ。在任三年。十八歳。第八代——ヘルミーネ。在任八年。二十三歳。第九代——エリーザベト。在任四年。十九歳」
名前、年数、年齢。三つの情報だけが並ぶ。それ以外は何もない。好きだったものも、嫌いだったものも、笑った日のことも、泣いた夜のことも——何も記されていない。
ヴェルナーが静かに言った。
「……全員、二十代で亡くなっている」
「ああ」
「最年少は十七歳。最年長で二十四歳。一人として——天寿を全うしていない」
カインは名簿から目を上げなかった。名前の一つ一つを、指でなぞっている。この指が——五百年前、イリスの手を掴み損ねた。あのとき掴んでいれば。あのとき止めていれば。この名簿は——存在しなかったかもしれない。
「在任期間にも傾向があります」
ヴェルナーが分析を続けた。声は冷静だが、いつもより低い。
「初期の聖女は在任期間が短い。一年から四年。中期になると六年から九年に延びている。教会が聖女の消耗を管理する技術を発展させた結果でしょう。消耗の速度を調整し、燃料としての効率を上げた。言い方を変えれば——より長く、より効率的に命を搾り取る方法を編み出したということです」
「結果は同じだ。全員、死んでいる」
「左様です。管理が上手くなっただけで——燃やす構造は変わっていない。蝋燭を長持ちさせる技術を磨いても、蝋燭が燃え尽きることに変わりはない」
沈黙が落ちた。灯火がちりちりと音を立てている。
リーリエは、名簿の前に座っていた。
銀灰色の髪が顔を半分隠し、表情が読めない。名簿を見つめている——ただ、見つめている。長い沈黙の中で、指一つ動かさない。呼吸すら聞こえないほど、静かだった。
カインが声をかけた。柔らかく——できる限り。
「リーリエ」
リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳は——乾いていた。涙はない。
「……たくさんの人が」
それだけだった。
たくさんの人が、死んだ。たくさんの人が、若くして命を奪われた。たくさんの人が——自分と同じ苦しみを味わった。
リーリエは、多くを語らなかった。語る言葉がなかったのかもしれない。数字の前では、どんな言葉も足りない。十七歳。二十一歳。十九歳。それぞれの数字の向こうに、生きた人間がいた。笑い、泣き、怒り、眠り——そして、炉に呑まれた。
カインはリーリエの沈黙を遮らなかった。名簿を挟んで、二人は暫く何も言わずにいた。書庫の灯火だけが、ちりちりと世界の音を刻んでいる。ヴェルナーは席を外していた。この場に第三者は不要だと判断したのだろう。
「カインさま」
リーリエの声は、いつもの平坦さだった。けれど——何か、底の方に沈んだ重さがあった。湖の表面は穏やかでも、底には暗い水が溜まっている——そういう重さだった。
「この人たちには——名前があったのですね」
「ああ」
「教会では、先代の聖女の名前を聞いたことがありませんでした。『先代聖女』とだけ。番号のように。第何代、第何代と」
カインの拳が、膝の上で握りしめられた。
「教会にとって聖女は個人じゃない。機能だ。だから名前を必要としない」
「……はい。知っています」
リーリエの声が微かに揺れた。一瞬だけ——すぐに元の平坦さに戻った。
「知っていました。けれど、こうして名前と数字を並べて見ると——改めて」
リーリエが名簿に手を置いた。指先が、最初の名前——イリスの文字に触れている。そっと、壊れ物に触れるように。
「この人たちを——覚えていたいです」
カインは答えなかった。答えられなかった。喉の奥に、五百年分の痛みが詰まっていた。この名簿に載っている十二の名前の全てを、教会は歴史から消した。讃えるべき存在ならば、なぜ名前を消す。見せられないからだ。あまりに残酷で、讃えようがないからだ。
リーリエが名簿の端に指を触れた。十二人分の名前と数字の列。それぞれに人生があった。笑った日があり、泣いた日があり、誰かを想った夜があっただろう。友人がいたかもしれない。家族がいたはずだ。それが全て——結界のために消費された。名前すら消された。
名簿の灯火が揺れ、十二の名前の上に影が踊った。消された頁から掘り起こされた、声なき声。五百年の沈黙を破って——ようやく、名前を取り戻した聖女たち。
その名前の一つ一つに、カインは深い怒りを覚えていた。五百年間溜め込んだ怒りが、名前を読むたびに膨らんでいく。しかしまだ——口にはしなかった。次の言葉のために、溜めている。明日、リーリエにこの名簿を見せる。一人ずつ、声に出して読み上げる。消された名前を——蘇らせるために。




