消された頁
消された頁は、偶然見つかったわけではない。書庫の暖炉が低く燃え、紙とインクの匂いが温められた空気に溶けている。
カインは五百年の間、教会の歴史書の写本を蒐集してきた。古い修道院の廃墟、忘れ去られた書庫、闇市で流通する禁書——手に入るものは全て集めた。その数は百冊を超える。同じ歴史書でも写本によって内容が微妙に異なる。写本者の癖、時代ごとの改訂、意図的な修正。それらを照合することで、「何が消されたか」が浮かび上がる。
書庫の奥で、カインは三冊の歴史書を机に並べていた。同じ書物の、異なる時代の写本だ。ランプの光が古びた頁を照らし、インクの匂いが漂っている。
今朝、カインはその作業の途中で——異常に気づいた。
「頁番号が飛んでいる」
最も古い写本には二百七十三頁があるのに対し、二番目は二百六十九頁、三番目——最も新しいものは二百六十五頁しかない。
「つまり、写本が新しくなるたびに、頁が減っている」
ヴェルナーが虫眼鏡を手に、頁の断面を検分していた。眼鏡の上から虫眼鏡を覗く姿はやや滑稽だが、目つきは真剣そのものだ。
「切り取られた痕跡があります。刃物ではなく——魔法で。紙の繊維が焼き切られている。物理的な痕跡を残さないためでしょう。相当高度な魔法です。教会の上層部でなければ使えない」
「だが頁番号までは消しきれなかったか」
「左様です。番号は別のインクで記されていたようですな。消去魔法の対象から外れたのでしょう。あるいは——番号を消すと不自然になるため、意図的に残したのかもしれません。読者が気づかなければ、欠落に気づく者はいない」
カインは消えた頁の番号を書き出した。百二十三頁、百二十四頁、百四十七頁、百四十八頁、二百十一頁——合計八頁分の欠落。
「この番号の周辺には何が書かれている」
最も古い写本を開いた。消された頁の前後を読む。
百二十二頁——「第四代聖女の就任の記録。式典は盛大に行われ、民衆は祝福を——」。百二十五頁——「結界の安定に関する報告。聖女の力は十全に——」。間の二頁が、消えている。就任と結界の安定の間——つまり、聖女が何をし、何が起きたのかが、消されている。
百四十六頁——「第七代聖女への祝辞。教会は新たなる聖女を——」。百四十九頁——「翌年の秋、結界に異常はなく——」。間の二頁が、消えている。
「……聖女の記録だ」
カインの声が低くなった。椅子の肘掛けを掴む指が、白くなるほど力が入っている。
「消されているのは、全て聖女に関する記述だ。就任と結界の安定——その間にあるべきものは何だ。聖女がどのように務めを果たし、どのように身体が変化し、どのように——」
「死んだか、ですな」
ヴェルナーの声は平坦だったが、眼鏡の奥の目は鋭かった。
「教会は、聖女がどう死んだかを組織的に消している」
その言葉が書庫の空気に落ちた。蝋燭の炎が一瞬揺れ、二人の顔に影が走った。
カインは拳を握った。
五百年前、初代聖女が炉に身を投じた。その後も聖女は生まれ続け、炉の燃料として消費され続けた。教会はそれを「崇高な犠牲」と讃え——そして、その実態を歴史から消した。「崇高」ならば隠す必要はないはずだ。隠しているのは——見せられないからだ。
「何を隠している」
呟くように言った。歴史書に向けた言葉だったが、教会に向けた言葉でもあった。五百年分の怒りが、低い声に凝縮されていた。
——リーリエを呼んだ。
書庫にやってきたリーリエに、カインは消された頁の存在を見せた。三冊の歴史書を並べ、頁番号の欠落を示す。一冊ずつ手に取らせ、頁の減り方を確認させた。
「教会は聖女の記録を消している。何を隠しているかは——まだわからない」
リーリエは三冊の歴史書を順に見比べた。指で頁番号をなぞり、欠落を確認していく。その仕草は淡々としていた。驚きはない。教会に対する期待が、もう残っていないのだ。
「……消さなければならないような真実が、あるということですね」
「ああ」
「教会は聖女の死に方を隠している。それは——死に方が、崇高ではなかったから」
カインが目を見張った。リーリエは真っ直ぐに歴史書を見つめている。その声は静かだが、論理は明瞭だ。教会の内側を知る人間だからこそ、教会の欺瞞を的確に読み解ける。
「教会は聖女の犠牲を『崇高な使命』と称えています。けれど本当に崇高なのであれば、隠す必要はありません。むしろ誇示するでしょう。記録を残し、後世に伝え、聖女の偉大さを讃えるはずです。隠すのは——見せられないからです」
リーリエの声は静かだった。感情が凍結した声。けれどその静けさの下に、何かが動いている。薄い青紫の瞳の奥に、微かな光が灯り始めている。
「つまり——聖女の死は、教会が語るよりも、ずっと酷いものだったのでしょう」
カインは言葉を返せなかった。
五百年前、カインは初代聖女の死を目撃した。炉に身を投じ、炎に呑まれ——悲鳴すら上げられずに消えていった。あれが「崇高」であるものか。あれは——ただの死だった。苦痛に満ちた、孤独な死だった。
「消された頁を復元できるか、調べてみる。ヴェルナーに魔法的な復元を試みさせる」
「はい」
「それから——お前にも手伝ってほしい。教会の歴史書は古代語で書かれている。お前は教会で古代語を習ったはずだ」
リーリエが微かに頷いた。
「私にできることがあるなら。——教会の嘘を暴く手伝いなら、喜んで」
その言葉は淡々としていた。しかし「喜んで」の音に、凍結した感情の下から微かな熱が滲んでいた。怒りの芽が——声に色を与えている。
最後の一言に、カインは微かに息を呑んだ。「喜んで」——リーリエがその言葉を使うのは、初めてだった。
二人の視線が、消された頁の上で交わった。歴史から消された聖女たちの声を、掘り起こす作業が始まる。
蝋燭の芯を新しくし、油を足す。長い夜になる。しかし二人とも——疲れてはいなかった。むしろ目が冴えている。消された頁の向こうにある真実を追う作業は、消耗ではなく——闘いだ。教会の隠蔽に対する、静かな闘い。
「……行くぞ。夜は長い」
「はい」
書庫の灯火が揺れた。二人の影が壁に伸びている。消された頁の向こうに、何が眠っているのか。歴代聖女たちの沈黙が——答えを求めて、待っている。
リーリエは歴史書の背表紙に指を滑らせた。この書物の中に、自分と同じ苦しみを味わった人たちの記録が——あったはずだ。そしてそれが、消された。まるで最初から存在しなかったかのように。
その怒りの種が、胸の奥で静かに芽を出し始めていた。まだ小さな芽だ。しかし——根を張り始めている。




