孤立する城
商人が来なくなった。冬の風が城門を吹き抜け、誰もいない門前の石畳に枯葉を転がしている。かつてはここに荷馬車が停まり、人の声と馬の嘶きが響いていたはずだ。
最初に変わったのは、城に届く音だった。毎週火曜の朝に聞こえていた荷馬車の車輪の音が、聞こえなくなった。城門の前で荷下ろしをする男たちの声。ヴェルナーが伝票を確認する紙の音。リュカが「今日は何が入ったっすか」と尋ねる声。それらの生活の音が、一つずつ消えていった。
リーリエが最初にその変化に気づいたのは、台所の棚だった。いつもは隙間なく並んでいた香辛料の瓶が、二つ欠けている。マリカに尋ねると、「入荷がなかっただけですよ」と笑って誤魔化された。その笑顔がいつもより少しだけ硬いことに、リーリエは気づいていた。
その翌日、果物の籠が半分しか埋まっていなかった。その翌日、パン用の小麦粉が底をつきかけた。リュカが「まあ、なんとかなるっすよ」と軽く言ったが、その夜、厨房でヴェルナーと何か真剣に話し合っていたのを、リーリエは見ている。
「ヴェルナーさま。物資が減っていますね」
廊下で声をかけると、ヴェルナーは眼鏡を押し上げて溜息をついた。隠しても無駄だと悟ったのだろう。この聖女は、見ていないようで全てを見ている。
「聖女殿は察しがよろしい。——はい。各国が教会の圧力を受け、魔王領との取引を制限し始めています」
「経済制裁、ということですか」
「左様です。直接的な命令ではなく、『魔王と取引する者は教会の祝福を受けられない』という暗黙の圧力です。商人にとって、教会の祝福を失うことは——」
「商売の死を意味する、ですね。教会の祝福印がない商人は、市場に出店できず、宿にも泊まれない。教会が経済の根幹を握っている以上、商人は教会に逆らえない」
ヴェルナーが微かに目を見張った。
「……聖女殿は、教会の仕組みをよくご存知ですな」
「教会で育ちましたから」
リーリエは淡々と答えた。教会の権威がどれほど社会に根を下ろしているか。信仰だけではない。経済も、政治も、教育も——すべてが教会の手のひらの上にある。聖女制度はその最たるものだが、教会の支配はもっと広い。もっと深い。
城の広間では、ヴェルナーが従者たちに備蓄の状況を説明していた。
「現在の備蓄で、約三ヶ月は持ちます。城の地下貯蔵庫は五百年分の知恵が詰まっていますのでな。旦那様が長年にわたって蓄えてきた保存食と物資が、地下三階まで詰まっています。魔王領内の農地と水源も確保されています。急を要する状況ではありません」
従者たちにざわめきが走った。不安の色はあるが、ヴェルナーの冷静な声がそれを抑えている。
「ですが、長期的には対策が必要です。領内の自給体制を強化し、必要に応じて海路での調達も検討します。当面は節制を心がけていただきたい」
リュカが手を挙げた。「質問いいっすか。酒の備蓄は」
「十分にあります。ただし一日二杯までです」
「うぇ」
小さな笑いが広がった。ヴェルナーは意図的にそういう空気を作ったのだろう。緊張を解す技術を、この男は心得ている。
説明が終わり、従者たちが散っていく。リーリエは一人、台所に向かった。
棚を開ける。香辛料の瓶を確認する。食材の量を見る。足りないものを探す。そして——自分の皿を一枚、棚に戻した。
「私は今日、少し食欲がないので。他の方に回してください」
台所にいたマリカが、振り返った。エプロンの裾を握りしめている。
「リーリエ様」
リーリエの手がテーブルの下で膝を握っていた。指先が冷たい。
「本当です。朝、少し食べ過ぎたので」
「嘘ですね」
マリカの声は、いつもの柔らかさではなかった。はっきりと——力強かった。料理をしている手が止まり、真っ直ぐにリーリエを見ている。
リーリエが目を瞬かせた。マリカがエプロンで手を拭きながら、リーリエの前に歩み寄る。足音がしっかりしている。小柄な身体なのに、今は大きく見えた。
「リーリエ様。あなたはここ数日、食事の量を減らしていますね。朝の花茶だけで午前を過ごし、昼も半分しか食べていない。気づいていないと思いましたか」
「……いいえ」
「なぜですか」
「私がいるから、物資が——」
「違います」
マリカがリーリエの手を取った。温かい手だった。料理をしていた手。毎日この城の食卓を支えてきた手。指先が少し荒れている。水仕事の跡だ。
「リーリエ様のせいなんかじゃありません。悪いのは、追い詰めてくる連中です。リーリエ様は何も悪くない」
「でも」
「でも、じゃありません」
マリカの瞳が、真っ直ぐにリーリエを見つめている。茶色い目に、涙のような光があった。けれど泣いてはいない。怒っているのだ。リーリエが自分を責めることに。リーリエが自分の食事を減らすことに。
「ここにいてくださいね。お腹をすかせたりしないで、ちゃんと食べて——ここにいてくださいね」
リーリエは言葉を失った。
教会では、こんなふうに言われたことがなかった。「食べなさい」とは言われた。聖女の身体を維持するために。結界の燃料を保つために。食事は義務であり、摂取カロリーは管理されていた。けれど「ここにいてくださいね」——その言葉は、機能としてではなく、人として。リーリエを燃料ではなく、一緒に食卓を囲む相手として見ている。
「……はい」
リーリエは、皿を元に戻した。棚から取り出し、食卓に並べた。
マリカが微笑んだ。目尻の皺が深くなり、温かい光が滲んでいる。
「今日はスープを多めに作りますね。少し寒くなりそうですから。リーリエ様の分は、ちょっとだけ味を濃くしておきますね」
「……ありがとうございます」
台所を出て、廊下を歩いた。閉じられた窓の向こうに、夕日が沈んでいく。
孤立は進んでいる。物資は減り、世界は教会に傾いていく。けれど——この城の中には、まだ温かいものがあった。マリカの手の温度が、リーリエの掌に残っている。
ここにいていいのだろうか。
自分がいるから物資が減る。自分がいるから教会が圧力をかける。自分が戻れば——全て解決する。その論理は正しい。正しいからこそ、重い。カインは「お前のせいではない」と言うだろう。リュカは「気にしなくていいっすよ」と笑うだろう。ヴェルナーは黙って対策を立てるだろう。マリカは「ここにいてくださいね」と言ってくれた。
彼らの言葉に甘えていいのだろうか。
答えはまだ出ない。出しようがない。けれど今日だけは——マリカのスープを、ちゃんと全部飲もうと思った。温かいスープを。最後の一滴まで。それがマリカへの、今できる精一杯の返事だった。




