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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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教会の声明

 教会の声明が、世界を駆け巡った。冬の朝、窓の外に霜が降りていた。冷たい空気が部屋の隅にまで忍び込み、リーリエの指先が微かに悴んでいる。


 ヴェルナーが密かに入手した写しを、カインが手に取る。上質な羊皮紙に、教会の金色の紋章。文字は端正な書体で、一字の乱れもない。声明が発表されてから僅か二日で、各国の宮廷と主要都市の全てに配布されている。教会の伝達網の速さは、五百年前から変わらない。


「読むぞ。声明の全文だ」


 リーリエが頷いた。カインの隣の椅子に座り、声明の写しを見つめている。両手を膝の上で組んだまま、静かに待っている。背筋は真っ直ぐで、教会仕込みの姿勢が出ている。しかし以前と違うのは——目がカインを見ていることだ。声明ではなく、カインの横顔を。この人がどんな表情で読むのかを、確認しようとしている。


 カインが声に出して読んだ。低い声が書庫に響く。


「『世界の民へ告ぐ。結界の弱体化が各地で深刻な被害をもたらしていることは、教会としても痛恨の極みである。調査の結果、この弱体化は聖女の不在に起因することが判明した。聖女リーリエは現在、魔王カインの支配下にあり、本来あるべき聖なる炉への帰還が妨げられている。教会は聖女の救出と結界の回復のため、各国の協力を求める。世界を守るために、力を合わせよう』」


 カインは声明を机に置いた。紙が軽い音を立てた。


「——巧いな」


 声に感情はなかった。怒りを通り越して、冷静な分析が先に来た。五百年の経験が、教会の手口を見慣れさせている。


「嘘はついていない。だが事実の順番を入れ替えている。結界が弱まっているのは事実だ。聖女の不在が原因なのも、部分的には事実だ。だが——聖女がなぜいないのか。誰が聖女を使い潰す制度を作ったのか。何百年もの間、何人の聖女を炉に送り込んで殺してきたのか。そこには一言も触れていない」


 ヴェルナーが頷いた。


「事実を素材にして、嘘の物語を組み上げている。教会の常套手段ですな。料理に喩えるなら、食材は本物ですが、調理法が嘘です。出来上がった料理は美しいが、食べれば毒になる」


「結界が弱まったのはリーリエが逃げたからではない。教会が何百年も聖女の命を燃やし続けてきたからだ。リーリエの消耗は教会の制度が原因だ。順番が、逆なんだ。原因と結果を入れ替えている」


 カインの指が、声明の紙の縁を弾いた。乾いた音が部屋に響く。


「だが世界にはそう見えない。教会の声明を読んだ人間は、こう思う——聖女を魔王から取り返せば、結界は元に戻る。単純で、わかりやすくて、正義の味方になった気分になれる。だからこそ——厄介だ」


 ヴェルナーが書類を広げた。


「既に三ヶ国が教会の声明への支持を表明しています。北方連合と、西方のアルディス王国、南方のセレニア公国。いずれも教会との結びつきが強い国々です」


「予想通りだ。東部の諸侯は」


「まだ態度を保留しています。東部は教会の影響力が比較的弱い地域ですが——声明の効果が浸透すれば、傾くのは時間の問題でしょう」


 リーリエは声明を読み返していた。指で文字をなぞり、一行ずつ確認するように目を動かしている。教会で育った聡明さが、文面の裏にあるものを読み取ろうとしている。


「……嘘ではないのですね」


 リーリエの声は、淡々としていた。


「結界弱体化は事実です。私がここにいるから弱まっているのも、事実です。教会の声明は——嘘をついていない」


「リーリエ」


 マリカの手が膝の上で握りしめられている。指の関節が白い。


「事実だからこそ、辛いのです」


 リーリエの声に、珍しく感情の色が混じっていた。苦しみではない。諦めでもない。「事実を認めなければならない」という、静かな痛みだ。声に抑揚はないが——言葉の選び方に、感情が滲んでいた。


「教会が全て嘘を言っているなら、無視できます。『あれは嘘だ』と切り捨てればいい。けれど——半分は正しい。私が戻れば、結界は安定するのでしょう。それは——否定できません」


 カインが椅子から立ち上がった。声明の紙を指で叩きながら、リーリエに向き直る。


「事実であっても、お前を差し出す理由にはならない」


 声は低く、揺るぎなかった。


「結界が弱まっている。そうだ。お前がいなければ安定する。それも事実だろう。だが——お前の命を燃やして結界を維持することが正しいのか。一人の犠牲の上に世界を建てることが——正しいのか」


 リーリエが目を上げた。カインの深紅の瞳が、迷いなく彼女を見つめている。揺るぎない。教会の声明がどれほど巧みであろうと、世界がどれほど教会に傾こうと——この男の目は、揺るがない。


「俺は正しくなくていい。世界に嫌われてもいい。お前を差し出すことだけは——しない」


 沈黙が落ちた。書庫の灯火がちりちりと音を立てている。


 リーリエは言葉を探しているようだった。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。教会の論理は正しい——部分的に。カインの言葉も正しい——部分的に。その狭間で、リーリエの心が揺れている。


 やがて——小さく息を吐き、視線を落とした。


「……ありがとうございます」


 それだけだった。けれどその三文字は、以前よりも重く聞こえた。形だけの礼ではなく、縋るような——あるいは、安堵するような。「正しくなくてもいい」と言い切ってくれる人がいることへの、静かな安堵。


 ヴェルナーが書類を整えながら、声を挟んだ。


「各国の反応が気になります。教会の声明を受けて、支持を表明する国が続くでしょう。物資の制限がさらに厳しくなる可能性もあります」


「ああ。もう始まっている」


 カインが窓の外を見た。遠く、魔王領の境界の向こうに広がる世界。五百年間、その世界から切り離されて生きてきた。けれど今は——守るべきものがここにある。


「孤立するぞ。覚悟しておけ」


 ヴェルナーが頷いた。


 リーリエは声明の写しを畳み、膝の上に置いた。白い指が紙の角を撫でている。


 教会の声明は巧みだった。半分の事実で世界を動かす。嘘は暴ける。だが半分の真実は——暴けない。


 リーリエは窓辺に立ち、遠くの空を見つめた。あの空の下に、結界に守られている人々がいる。自分の命で守られている人々が。その人々の不安を、教会が煽っている。聖女を返せと。燃料を返せと。美しい言葉で包んだ、残酷な要求。


 しかしリーリエには——怒る力がまだなかった。怒りの代わりにあるのは、鈍い痛みだけだ。自分のせいで世界が揺らいでいるという、重い自覚。


 世界が少しずつ、確実に教会側に傾いていく。魔王領の孤立が、始まろうとしていた。


 窓の外で風が鳴った。冷たい風だった。冬が深まっている。


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