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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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結界の地図

 大きな地図が、机の上に広げられていた。羊皮紙の端が丸まろうとするのを、インク壺と書鎮で押さえている。部屋には紙と蝋と冷めた茶の匂いが漂っていた。


 羊皮紙の端がめくれ、インクの匂いが微かに漂っている。世界地図——ヴェルナーが各地の文献から照合し、カイン自身の五百年分の知識で補完したものだ。インクの匂いがまだ新しい。昨夜のうちに仕上げたのだろう。ヴェルナーは眠っていないはずだが、眼鏡の奥の目には疲れの色が見えない。この男は、必要とあらば三日は眠らずに働ける。


「ここが聖なる炉です」


 ヴェルナーが地図の中央に指を置いた。教会の聖都、その地下深くに在るとされる聖なる炉(エターナル・フレイム)。結界の核であり、歴代の聖女が命を注ぎ込んできた場所。地図の上では小さな点にすぎないが、その点に世界の全てがぶら下がっている。


「炉を中心に、結界は放射状に張られています」


 ヴェルナーの指が同心円を描くように動いた。炉に近い地域ほど結界が厚く、離れるほど薄い。道理だ。灯火は中心が最も明るく、縁に行くほど薄暗い。


「結界の要所は七つ。それぞれに小さな結界柱があり、聖なる炉からの力を中継しています。この中継点を経由して、世界全体が覆われている」


 カインが地図を睨んだ。七つの結界柱の位置に朱で印が打たれている。北に二つ、東に一つ、南に二つ、西に二つ。等間隔ではない。地形と人口の分布に合わせて配置されている。古い設計だ。初代聖女の時代——あるいはそれ以前に、誰かがこの配置を決めた。


「問題はここです」


 ヴェルナーが東部と南方の中継点を指した。


「この二箇所の結界が、特に急速に弱まっています。他の五箇所は緩やかな低下ですが、東と南は——もう数ヶ月で限界に達する可能性がある」


「パターンが見えるか」


「はい。弱まっている地域は、リーリエ様の身体的消耗と連動しています。リーリエ様の体調が悪い日に、結界の弱体化が加速する。逆に体調が安定している日は、弱体化の速度も緩やかになります」


 カインの拳が、地図の縁で握りしめられた。節が白くなるほどに。


 リーリエの命が結界の燃料。リーリエが消耗すれば結界も弱まる。リーリエが死ねば結界は崩壊する。そしてリーリエの消耗は——聖女である限り、止められない。覚醒した瞬間から始まった命の消費は、緩やかに、しかし確実に、この少女を死に向かわせている。


「つまり、このまま何もしなければ——」


「結界は崩壊し、世界は災厄に呑まれます。しかしリーリエ様を炉に戻せば、消耗はさらに加速し、命が尽きる。炉の近くでは消費速度が跳ね上がりますから。いずれにしても——」


「どちらに転んでもリーリエが死ぬ、ということだ」


 ヴェルナーが沈黙した。眼鏡の奥の目が、静かにカインを見つめている。この男は決して感情的にはならない。しかしその沈黙は——同意の沈黙だった。


 扉が軽く叩かれた。リーリエだった。黒い衣服の上に薄い肩掛けを羽織り、少し眠そうな目をしている。朝の早い時間帯は、まだ寝起きの気配を引きずっていることが多い。


「お邪魔します。地図が出来たと聞いたので」


「入れ」


 リーリエが歩み寄り、地図を覗き込んだ。銀灰色の髪が肩から落ちて、羊皮紙の上に影を作る。薄い青紫の瞳が、朱い印の一つ一つを辿っていく。指先が地図の線を追い、結界の同心円を確認する。教会で高度な教育を受けた知性が、構造を素早く把握していた。


「……綺麗な構造ですね」


「綺麗」


「はい。放射状に広がる結界。七つの中継点。まるで——花のようです。中心から花弁が広がっているみたいに」


 カインは一瞬、言葉を失った。結界の構造を「花のようだ」と評する人間を、五百年の中で初めて見た。普通は「盾」か「壁」に喩える。結界を「花」と呼ぶのは——この少女だけだ。


「この弱まっている地域の人々は——大丈夫なのですか」


 その言葉は、半年前のリーリエからは出てこなかっただろう。自分の命にすら無頓着だった少女が、地図の上の見知らぬ人々を心配している。カインはその変化を見逃さなかった。


 リーリエの指が、東部と南方の印に触れた。声は穏やかだったが、瞳に微かな翳りがあった。自分の命に無関心だった人間が、他者の安全を気にかけている。以前のリーリエなら、この質問はしなかった。


「今のところは。結界が完全に消えたわけではない。薄くなっているだけだ。だが——」


「このまま続けば」


「ああ」


 カインは言葉を呑んだ。「お前が死ぬ」とは言えなかった。代わりに「結界は持たなくなる」とだけ言った。嘘ではない。ただ、本質を避けている。


 リーリエの瞳に、罪悪感の色が浮かんだ。自分の命が結界の燃料であること——その燃料が尽きかけていることを、この少女は知っている。知った上で、他者を心配している。自分の死よりも、結界の向こうの人々の安全を。


「私がもっと——」


「それ以上言うな」


 カインの声は、思ったよりも鋭くなった。リーリエが目を瞬かせる。


「お前が自分を削る必要はない。俺が方法を見つける。時間はある」


 時間は、なかった。ヴェルナーの分析が正しければ、東部と南方の結界はあと数ヶ月で臨界点に達する。その前に——何かを見つけなければならない。五百年間見つからなかった答えを、数ヶ月で。


 だがリーリエの前では、そう言った。冷静を装って。リーリエの前でだけは——焦りを見せるわけにはいかない。


「ヴェルナー、東部と南方の結界柱の詳細な記録を集めろ。古文書にも手がかりがあるかもしれない。結界柱の設計思想がわかれば、弱体化を遅らせる方法が見つかるかもしれない」


「承知しました」


 ヴェルナーが一礼して去っていく。部屋にはカインとリーリエだけが残った。


 地図の上で、七つの朱い点が灯火のように並んでいる。世界を支える結界の骨格。その全てが、リーリエ一人の命にぶら下がっている。花のように美しい構造の下に、一人の少女の命が埋められている。


「時間がない」


 カインが呟いた。リーリエには聞こえないほど小さな声で。


 地図の中央——聖なる炉の位置に、カインの影が落ちていた。五百年前、あの場所で全てが始まった。あの場所で——初代聖女を失った。炎の中に消えていく白い手を、掴めなかった。


 同じ結末を、繰り返すわけにはいかない。


 リーリエが地図を見つめている。銀灰色の髪に、窓からの光が透けて淡い紫に見える。この少女が地図の上の「点」になることだけは——許さない。


 カインは地図を丁寧に巻き直し、棚にしまった。五百年間集めた地図は数十枚に及ぶが、今この一枚が——最も重い。世界の形ではなく、一人の少女の命の重さが描かれた地図だ。


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