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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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噂の風

 風が変わった——と、カインは思った。


 ヴェルナーが執務室に入ってきたのは、朝の陽が窓の半分を照らした頃だった。銀縁の眼鏡が光を弾き、その奥の目はいつもより僅かに鋭い。手にした書類の束が厚い。一晩で集めた情報だろう。


「旦那様。各地からの報告をまとめました」


「言え」


「北方の街道沿い三都市、東部の港町二つ、南方の交易拠点——計七箇所で、同時多発的に噂が広まっています。『聖女が魔王に囚われた』と」


 カインは机の上に広げた古文書から目を上げた。深紅の瞳が、僅かに細まる。


「同時多発的、か」


「はい。自然発生ではありませんな。時期が揃いすぎている。いずれの都市でも噂が広まり始めたのは三日前から。明らかに組織的な流布です。教会の信徒ネットワークを使ったものと推測されます」


 教会だ。カインには確信があった。聖騎士団を送り込み、使者を差し向け——それでも駄目なら、次は世論を使う。世界を味方につけ、魔王を孤立させる。五百年前と同じ手口だ。教会は常に、正面からの力押しよりも、側面からの締め上げを好む。民衆の声を武器にし、大義名分を鋳造し、「世界のため」という旗印の下に暴力を正当化する。


「具体的にはどのような内容だ」


 ヴェルナーが書類を読み上げた。


「『聖女リーリエは魔王に捕らわれ、苦しみの中で結界を維持させられている。教会は救出のために尽力しているが、魔王の力が強大すぎる』——概ね、このような筋書きです。都市によって細部は異なりますが、骨子は統一されています。台本があるのでしょう」


「笑えるな」


 笑えなかった。教会はリーリエを人柱(アンカー)として炉に繋ぎ止め、命を燃料に消費させていた。囚えていたのは教会のほうだ。それを裏返して「魔王に囚われている」と喧伝する。嘘ではない——事実を鏡像にしただけだ。だからこそ質が悪い。事実の芯を残しているから、嘘だと暴くことが難しい。


「噂の広がり方に特徴はあるか」


「街道沿いの宿場と市場を起点にしています。旅の商人や巡礼者を通じて拡散させる手法ですな。教会が直接口にするのではなく、一般人の口を借りて広める。出所が辿れないよう、注意深く設計されています」


 カインは椅子の背に体重を預けた。きしむ音がした。


「領内の反応は」


「今のところ動揺はありません。住民たちは旦那様を信頼しております。長年の統治の実績がありますから。しかし——」


「外が問題だ」


「左様です。各国の民衆は教会を信仰の柱としています。教会の言葉は、事実よりも重い。仮に真実を叫んだとしても、魔王の言葉と大司教の言葉が天秤にかけられれば——結果は明白です」


 カインは窓の外を見た。青い空。穏やかな朝。遠くに魔王領の森が広がり、その向こうに人間の国々が連なっている。五百年間、カインはこの窓から外を眺めてきた。孤独な日々だった。世界から切り離された領地で、ただ一つの目的のために生き続けてきた。


 この静けさが、嵐の前のものだと知っている。


「俺たちを孤立させるつもりだ」


 呟くように言った。ヴェルナーが眼鏡を押し上げ、黙って頷いた。


「対策を考えます。情報戦で後手に回るのは避けたい」


「頼む」


 ヴェルナーが一礼して出ていった。


 カインは再び古文書に目を落とした。聖なる炉の構造に関する記述を探していたが、文字が頭に入ってこない。教会の動きが気にかかる。噂の流布は序章にすぎない。次は公式声明、その次は各国への圧力、そして最後は——


 軍だ。


 カインは古文書を閉じ、額を手で押さえた。


 ——午後、リーリエが書庫に現れた。


 銀灰色の髪が肩の上で揺れ、薄い青紫の瞳がカインを捉える。表情は穏やかだったが、どこか翳りがあった。手に花茶のカップを二つ持っている。一つを差し出すように、机の端に置いた。


「カインさま」


「どうした」


「リュカが教えてくれました。外で——噂が広まっていると」


 リュカめ、とカインは内心で舌打ちした。あいつは余計なことを言う。しかし隠し通せるものでもない。リーリエは聡い。遅かれ早かれ気づく。ならば——嘘をつくよりも、真実を共有するほうがいい。


「ああ。教会が流している。お前が俺に囚われていると」


「……そうですか」


 リーリエが視線を落とした。白い指が、袖口を握りしめている。以前は見られなかった癖だ。魔王城に来てから身についた——不安を感じたときに出る仕草。感情が凍結していた頃にはなかった。つまり——少しずつ、感じるようになっているということだ。


「私がここにいるから、皆が困っているのですね」


 カインの手が止まった。古文書の頁を繰る指が、紙の上で静止する。


「違う」


「でも——」


「お前のせいではない」


 カインは立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに動く。リーリエの前に歩み寄り、見下ろす。深紅の瞳が真っ直ぐにリーリエを捉えた。


「嘘を広めているのは教会だ。結界を弱めたのは教会が聖女を使い潰す制度を作ったからだ。お前がここにいることは、誰の迷惑にもなっていない」


 リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳が揺れている。


「……でも」


「でも、はない」


 カインの声は低く、しかし揺るぎなかった。命令ではない。事実を告げる声だ。教会が五百年かけて積み上げた嘘の山を、この声一つで崩すことはできない。けれど——目の前の一人に、事実を伝えることはできる。


「お前は悪くない。それだけだ」


 リーリエは暫く黙っていた。袖口を握る指の力が、少しだけ緩んだ。カインの言葉を吟味しているのだろう。この少女は、言葉を額面通りには受け取らない。けれど——嘘かどうかは、見抜く。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。納得したわけではないだろう。けれど、否定してくれる人がいることに——微かな安堵が、その声には混じっていた。以前のリーリエなら「はい」とだけ答えた。「ありがとうございます」と言えるようになったのは——変化だ。


「花茶、冷めますよ」


 リーリエが机の端のカップを指した。カインが「ああ」と手を伸ばす。リーリエの淹れた花茶は、リュカのものより少し薄い。けれど、悪くなかった。


 カインは背を向け、書庫の奥へ戻った。リーリエの視線が背中に当たっているのを感じながら、古文書を再び手に取る。花茶の湯気が、書庫の冷えた空気の中で白く揺れていた。


 教会の世論操作は始まったばかりだ。噂は広がる。各国は揺れる。やがてこの城は、世界から孤立する。


 だがカインの決意は変わらない。


 ——リーリエをここから出すつもりはない。世界が敵に回ろうと。


 窓の外で、風が向きを変えた。北から吹いていた風が、今は南から——教会の聖都の方角から、吹いている。


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