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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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真実の重さ

 ある日の夕暮れ、リーリエは窓辺に立っていた。ガラスに触れた指先が冷たい。吐息が白く曇った。


 冬の夕暮れ。空が橙色から紫に変わっていく時間帯。遠くの山が黒いシルエットになり、空の色と溶け合っている。雲の端が金色に輝き、やがて紫に沈んでいく。毎日繰り返される光景。しかし同じ夕暮れは二度とない。今日の空の色は今日だけのもの。


 一つの区切りを感じていた。


 漠然とした感覚だったが、確かにそこにあった。


 知る前と、知った後。


 自分の命が燃料であると知る前と、知った後。境界線が引かれた。越えてしまった線は、もう戻れない。知識は消せない。聞いてしまった言葉は忘れられない。カインの声で告げられた「人柱」という言葉が、今もリーリエの中に重く沈んでいる。


 しかし——潰されてはいない。


 正直なところ、潰されるかと思った。真実の重さに。あの夜、手が震えていた。枕が濡れた。しかし翌朝、茶を飲めた。「不味くはない」と言えた。施術でカインの手を握れた。マリカのスープを「温かい」と感じられた。


 潰されていない。まだ立っている。


 足音が聞こえた。


 カインだった。リーリエの隣に来て、黙って立った。二人で窓の外を見る。言葉はなかった。


 この沈黙が——心地よかった。


 かつて沈黙は、リーリエにとって孤独の証だった。教会にいた頃、沈黙は「誰もいない」ことを意味した。誰も話しかけてこない。誰も隣にいない。一人で黙って、一人で耐える。石壁に囲まれた部屋で、自分の呼吸だけが聞こえる沈黙。あの沈黙は冷たかった。


 今の沈黙は違う。


 隣に人がいる沈黙。共有された沈黙。カインが傍にいて、何も言わず、同じ景色を見ている。それだけで——沈黙の色が変わる。冷たい灰色から、温かい紫色に。


 しばらくそうしていた。夕暮れの空が暗くなっていく。最初の星が一つ、二つと灯り始める。冬の星は鋭い。空気が澄んでいるから、光が尖って見える。


「カインさん」


「何だ」


「知ったことで、何かが変わるわけではありません」


 リーリエは空を見たまま言った。


「私は聖女で、命は燃料で、世界はまだ結界に守られている。教会がいて、炉があって、結界が私の命を吸い続けている。あなたの施術で消耗が緩和されても、根本的な問題は何も解決していない。何も変わっていません」


 カインは黙って聞いていた。口を挟まず。反論もせず。リーリエの言葉が尽きるまで待つ姿勢。


「聖女である限り——私の命は、燃え続ける。それは変わりません」


 事実を並べた。淡々と。しかしその声のトーンは——数ヶ月前とは、微かに違っていた。以前の淡々さは無機質だった。感情が凍結した、空虚な声。すべてがどうでもよかった頃の声。


 今の淡々さには——何か、底に流れるものがある。温度がある。低い温度だが、確かにある。


「でも——」


 言いかけて、止まった。


 カインが待った。急かさなかった。星が一つ増えた。


「でも、何だ」


「……まだ言葉にできません」


 リーリエが首を振った。


「『でも』の先に何があるのか、自分でもわかりません。何が変わったのか、何が変わっていないのか。事実は同じはずなのに——何かが違う気がする。でも、それが何かを言葉にできないのです」


 正直な言葉だった。飾りのない、リーリエらしい言葉。わからないことを「わからない」と認める。知ったふりをしない。感じていることを正確に言葉にしようとして、できないことも含めて正直に語る。


 カインは頷いた。小さく、しかし確かに。リーリエの「わからない」を否定しなかった。「こうだろう」と決めつけもしなかった。リーリエが自分で言葉を見つけるまで、待つ構えだ。


「言葉にできたとき、聞く」


 短い一言。しかしその言葉の中には——待つ、という意志があった。急がない。焦らない。リーリエが自分の言葉を見つけるまで、ここで待つ。一日でも一年でも。


「……ありがとうございます」


「礼はいらない」


「でも言います。あなたはいつも『いらない』と言いますが、私は言いたいので。言いたいときに言いたいことを言うのも、自由というものでしょう」


 カインが僅かに目を細めた。呆れと、しかしどこか温かいもの。


「……生意気になったな」


「あなたの城に住んでいるうちに」


 リーリエは窓の外を見た。星が増えている。冬の星座が少しずつ形を取り始めていた。フェアシュテルンはまだ見えない。もう少し暗くなれば、五つの星の弧が見えるはずだ。


「知る前には戻れません」


「ああ」


「知ったことは消せません」


「消す必要はない」


「ええ。でも——」


 また「でも」。


 リーリエは自分の口から出た言葉に、少し驚いた。「でも」が多い。以前のリーリエなら「でも」とは言わなかった。「でも」は反論の言葉だ。何かに抗おうとする言葉だ。現状を受け入れず、別の可能性を探る言葉だ。諦めた人間は「でも」を使わない。


 今、リーリエは「でも」と言っている。


 何に抗おうとしているのか。自分でもわからない。けれど——何かが、胸の奥で声を上げている。諦めの水面の下で、小さな泡が浮かび上がっている。まだ水面には届かない。しかし確実に、上に向かっている。


「でも——知ってくれている人がいるのは、少し違います」


 それがリーリエの、今の精一杯だった。


 自分の命が燃料であることを知っている人がいる。自分の痛みを知っている人がいる。隣にいて、手を握って、魔力を分けてくれる人がいる。スープを作ってくれる人がいる。軽口を言ってくれる人がいる。


 それだけで——何が変わるわけでもない。


 けれど「何も変わらない」とは、もう言い切れなかった。


 カインが何も言わなかった。ただ隣にいた。


 二人は並んで窓辺に立ち、冬の空を見ていた。風が吹き、リーリエの銀灰色の髪とカインの黒い外套が揺れた。同じ風が二人に触れている。


 リーリエの「でも」の先にある言葉は——まだ、形を持っていない。


 しかし確かに、そこにある。


 凍った湖の下で、水が流れ始めている。まだ氷は厚い。まだ表面には届かない。けれど——水は確かに動いている。暗い水の底で、何かが目覚めようとしている。


 冬の夕暮れが夜に変わっていく。星が一つ、また一つと増えていく。空の色が紫から紺に、紺から黒に変わる。


 真実を知り、その重さを受け止め、それでもここにいる。「でも」という言葉を覚えた少女が、魔王の隣に立っている。


 次に何が来るかは、まだわからない。


 けれど——ここにいる。この窓辺に。この人の隣に。


 それだけが、今は確かだった。確かなものは少ない。けれど——ゼロではない。


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