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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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炉という言葉

 結界の構造について、カインとヴェルナーが議論を始めたのは昼食の後だった。食堂に残るスープの匂いがまだ廊下に漂っていた。


 執務室の大きな机の上に、図面が広げられている。ヴェルナーが描いた結界の構造図だ。同心円状に重なった複数の層——世界を覆う結界(ヴェール)の模式図。その中心に、一点が描かれている。インクが少し滲んでいるのは、ヴェルナーがこの一点を描くときに手を止めたからかもしれない。


 リーリエも同席していた。カインが「お前にも聞く権利がある」と言ったからだ。自分の命に関わることを、自分抜きで議論させない。それがカインの——リーリエに対する敬意の形だった。


「結界は五層構造です」


 ヴェルナーが図面を指し示しながら説明する。銀縁の眼鏡が蝋燭の光を反射し、冷静な声が執務室に響く。


「最外層が物理的な防壁。魔物の侵入を物理的に阻む層です。その内側に魔力的な浄化層。瘴気を中和し、人間の居住に適した環境を維持します。さらに内側に瘴気の濃縮を防ぐ中和層。四層目が結界の骨格——これが世界全体を支える構造です。そして中心に——」


 ヴェルナーのペンが、図面の中心の一点を示した。


「結界の中枢。聖なる炉サンクトゥス・フォルナクスと呼ばれる装置が、教会の最深部にあります」


 カインの手が止まった。


 一瞬だった。しかしリーリエは見逃さなかった。


 「聖なる炉」という言葉が出た瞬間——カインの右手が、机の縁を掴んだ。指が白くなるほど強く。表情は変わらない。しかし首筋に僅かに力が入り、顎の線が硬くなった。呼吸が一拍、止まった。


 ヴェルナーも気づいたはずだ。しかし何も言わず、説明を続けた。主人の地雷を踏んだことを察しつつも、説明を途中で止めるわけにはいかない。ここはリーリエに聞かせる場だ。


「炉は聖女の生命力を受け取り、結界のエネルギーに変換します。いわば——世界のエンジンです。聖女が炉と繋がっている限り、結界は維持される。聖女の命が尽きるか、炉との接続が断たれるかしない限り」


「炉の構造は」


 カインの声は平静だった。声だけは。


「詳細は不明です。教会の最深部にあり、アクセスできるのは大司教と一部の上位司祭のみとされています。ただ、古代文献の記述から推測すると——炉は人工物ではなく、世界の成り立ちそのものに根ざした存在と考えられます。世界が生まれたときから、あるいは世界と同時に、炉は存在していた」


「つまり壊せない」


「少なくとも、通常の手段では。結界の五層構造を維持する源泉を破壊するということは、世界そのものの構造を変えることに等しい」


 議論は一時間ほど続いた。結界の構造、炉の機能、聖女との接続の仕組み、各層の強度と脆弱性。ヴェルナーの冷静な分析とカインの五百年の知識が噛み合い、結界の全容が少しずつ明らかになっていく。蝋燭が一本、燃え尽きた。ヴェルナーが新しい蝋燭に火を移しながら、途切れることなく説明を続ける。この二人の呼吸の合い方は、数十年の信頼が作り上げたものだ。図面の余白にはカインが走り書きしたメモが増えていく。


 しかしリーリエの注意は——カインに向いていた。


 議論中、カインは何度か「炉」という言葉に反応した。「聖なる炉」が話題に上がるたびに、僅かに身体が強張る。顔には出さない。声にも出さない。しかし——身体が反応している。机の縁を掴む手。硬くなる顎。一瞬止まる呼吸。


 この人にとって「炉」は——ただの装置の名前ではない。


 議論が終わり、ヴェルナーが資料をまとめて退室した。


 二人きりになった。


 リーリエは迷った。指摘すべきか、黙っているべきか。「問わない優しさ」——あのときは問わないことを選んだ。しかし今回は——少しだけ、踏み込みたかった。カインの中にある痛みを知りたい。それは好奇心ではなく——もっと深い場所にある衝動だった。


「カインさん」


「何だ」


「炉という言葉に、反応しましたね」


 直球だった。リーリエらしい遠回しのない問い。


 カインが苦笑した。本当に僅かな、唇の端だけの苦笑。


「……鋭いな」


「見ていれば、わかります」


「見ているのか」


「ええ。見ています」


 その言葉には、リーリエ自身が思った以上の重みがあった。見ている。カインを、見ている。観察している、ではない。気にかけている、に近い。


 カインが窓の外に視線を向けた。冬の空が広がっている。灰色の雲が低く垂れ込めている。


「何か知っているのですか。炉について」


「……知っている。多少は」


「多少」


「いずれ話す。今はまだ——整理がつかない」


 リーリエは数秒間、カインの横顔を見つめた。強い顔。しかしその強さの下に——傷がある。「炉」という言葉が、古い傷を刺激している。


 前回の「問わない優しさ」とは、少し違う選択をする。


「いつか必ず聞かせてください」


 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。震えてもいない。迷ってもいない。


 カインが振り向いた。深紅の瞳がリーリエを見る。


「以前は『いつか話してくれるなら聞きます』と言いました。今日は——『いつか必ず聞かせてください』です。お願い、ではなく、要求です」


 踏み込んだ。待つだけではなく、求めた。カインの過去を、カインの痛みを、知りたいと。


「あなたの中にあるものを、知りたいです。あなたが炉という言葉に傷つくなら、その傷の形を——知りたい。知ったところで何ができるかはわかりませんが。ただ、知りたいのです」


 カインは黙っていた。長い沈黙。窓の外で風が吹き、枯れ枝が揺れる音がした。


「……約束する」


 カインが言った。低く、静かに。


「いつか——全部話す。炉のことも。五百年前のことも。俺が何者で、なぜお前を拾ったのか。全部」


「はい」


「ただ、今は——」


「今はいいです。約束してくれただけで十分です」


 リーリエが小さく頷いた。


 カインが視線を逸らした。窓の外を見る。横顔が——少しだけ、柔らかくなっていた。重荷を分かち合う約束をしたことで、肩の力が僅かに抜けたのかもしれない。


「お前は——」


「はい」


「……変わったな」


「変わりましたか」


「ああ。以前のお前なら、俺のことなど聞かなかった。他者の過去に踏み込むことなど」


 リーリエは考えた。確かにそうだ。


「変わったのかもしれません。少しだけ」


「少しで十分だ」


 カインの声が——僅かに、温かかった。


 リーリエは窓辺に立ち、カインの隣で外を見た。冬の庭。枯れた木々。灰色の空。けれど二人の間には——約束があった。


 いつか、すべてを話す。いつか、すべてを聞く。


 その「いつか」が来るまで——ここにいる。


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