聖女の祈り
夜が静かだった。暖炉の薪が爆ぜる小さな音だけが、部屋の沈黙を揺らしている。
冬の夜は早く訪れ、長く居座る。日が落ちると城の中は蝋燭と暖炉の灯りだけになり、影が廊下を這い回る。リーリエはそんな冬の夜が嫌いではなかった。静かで、暗くて、世界が小さくなる感覚。教会にいた頃は夜が怖かった。暗闇の中で痛みだけが鮮明になるから。しかし魔王城の夜は違う。暗くても——温もりの気配がある。壁の向こうにリュカがいて、階下にヴェルナーがいて、どこかにカインがいる。
リーリエは自室のベッドの上に座り、窓から差す月明かりを見ていた。冬の月は冷たく明るい。部屋の中に銀色の光が差し込み、壁に窓枠の影を描いている。窓の外に広がる夜空は澄み切っていて、星が無数に散らばっている。
ふと——手を組んだ。
祈りの形だ。
教会で何万回と繰り返した動作。指を絡め、胸の前に持っていく。あの頃は毎朝毎晩、この姿勢を取らされた。祈りの言葉を唱え、結界の維持を祈り、聖女としての役割を全うすることを神に誓う。形骸化した祈り。心がこもっていない祈り。痛みの中で機械的に口を動かすだけの祈り。
しかし今、手を組んだのは——強制ではなかった。
誰にも命じられていない。教会にいるわけでもない。魔王城の一室で、月明かりの中で、自分の意思で手を組んだ。身体が勝手に動いた。心の奥から湧き上がった衝動が、指を動かした。
なぜだろう。
祈りたかった——のかもしれない。胸の奥で、小さな灯火が揺れている。消えかけの蝋燭のような、頼りない光。しかし確かに——灯っている。
誰に?
神に? 教会の神は、リーリエの命を燃料にする仕組みを作った——あるいは黙認した存在だ。「崇高な犠牲」と名づけて少女の命を搾り取る仕組みを、何百年も放置した存在。そんな神に祈る気にはなれない。
では誰に。
わからない。わからないが——何かに向けて、手を伸ばしたかった。漠然とした衝動。胸の奥から湧き上がる、言葉にならない何か。求めたいものがある。しかし何を求めているのかが、自分でもわからない。
「もし聞いている方がいるなら——」
呟きかけて、止めた。
何を言えばいいのかわからない。「助けてください」とは思わない。「救ってください」とも思わない。そういう言葉は——教会で散々聞いた。リーリエ自身が神に向けて祈らされた言葉だ。しかしそれらの祈りは、何の意味もなかった。助けは来なかった。救いはなかった。痛みは止まらなかった。
では。何を祈る。
目を閉じた。月明かりが瞼の裏を薄く照らす。暗闇の中に、光の残像が浮かんでいる。
この温かさが、もう少し続けばいい。
それだけ。たったそれだけの、小さな願い。願いと呼ぶにはあまりに控えめで、祈りと呼ぶにはあまりに曖昧な。けれどそれが——今のリーリエに湧き上がった、唯一の言葉だった。
それだけが——浮かんだ。
具体的な願いではない。「カインに守ってほしい」とか「教会から逃れたい」とか、そういう明確な形を持った言葉ではない。ただ——この城の温かさ。朝の茶。施術の魔力。リュカの軽口。マリカのスープ。カインの不器用な優しさ。
それが、もう少し続けばいい。もう少しだけ。
死にたいと思っていた。ほんの数ヶ月前まで。崖から身を投げたのは——終わりにしたかったからだ。痛みの終わりを望んでいた。すべてが止まることを望んでいた。
今は——終わりを望んでいるのかどうか、自分でもわからない。
死にたくないとも言えない。しかし「もう少し続けばいい」とは思っている。それは——「死にたい」とは、少し違う場所にある言葉だ。「死にたい」は止まることの願い。「もう少し続けばいい」は——続くことの願い。正反対ではないか。
いつの間に、変わったのだろう。
手を組んだまま、目を閉じたまま、リーリエはしばらくそうしていた。祈りの言葉は結局出てこなかった。何を祈ればいいのかわからないまま——ただ、手を組んでいた。
教会で強制された祈りとは違う。強制されたのではない。罰としてでもない。義務でもない。
自発的に手を伸ばした。何かに。誰かに。あるいは——自分自身に。凍った心の奥で、何かが動いている。名前のつけられない感情が、指先を動かしている。
何かを求めている。それが何かは、まだわからない。
廊下から足音が聞こえた。
重い足音。石の床を踏む規則的な音。カインだ。リーリエはカインの足音を聞き分けられるようになっていた。重さと間隔で、誰が歩いているかわかる。リュカは軽くて速い。ヴェルナーは正確で均一。マリカは柔らかくて短い。カインは重くて、少し不規則。考え事をしているときは歩幅が乱れる。
足音がリーリエの部屋の前で止まった。
扉は叩かれなかった。
カインは——リーリエの部屋の前で、立ち止まっただけだった。立ち止まり、数秒間そこにいて、また歩き出す気配もなく——ただ、いた。
リーリエは気配に気づいていた。扉一枚を隔てて、カインが立っている。リーリエが起きているか確認しているのだろう。あるいは——ただ心配で、部屋の前まで来たのかもしれない。毎晩来ているのか、今夜だけなのか。
扉を開けようかと思った。しかし——開けなかった。
今この瞬間は、扉一枚の距離がちょうどよかった。近づきたい。けれどまだ、完全には近づけない。凍った感情が、扉を開ける手を止めている。開けてしまったら——何を言えばいいのかわからない。「こんばんは」? 「眠れないのですか」? どの言葉も、今の気持ちには合わない。
カインもまた、扉を叩かなかった。
二人は黙って、扉の両側にいた。互いの気配を感じながら。言葉は交わさず。木の扉一枚が二人を隔てている。しかしその扉は、壁ではなかった。
やがて、カインの足音が動き出した。遠ざかっていく。廊下を歩く重い音が、石壁に反響しながら消えていく。
リーリエは組んだ手を解き、膝の上に置いた。
カインが来た。夜中に、リーリエの部屋の前に。声はかけずに、ただ確認して去った。
それだけのこと。
それだけのことが——なぜか、胸の奥に温もりを残した。
見守られている。
その感覚が——祈りの答えのように、静かに胸に落ちた。
月明かりの中で、リーリエは小さく息をついた。
何を祈ればいいかは、まだわからない。けれど——祈りたいと思った自分がいる。何かを求めたいと思った自分がいる。
それは、死にたがりの聖女にとって——とても不思議なことだった。
月明かりが窓から差し込み、リーリエの組んだ手を銀色に照らしている。その光は冷たいはずなのに、今夜は——少しだけ温かく感じられた。




