問わない優しさ
施術は日課になっていた。朝の冷たい空気が窓の隙間から忍び込み、指先が少し悴んでいる。
毎朝、リーリエの部屋でカインがリーリエの手を取り、魔力を流す。十五分ほどの施術。その間、二人は向かい合って座り、手を繋いでいる。外から見れば奇妙な光景だろう。世界を震撼させる魔王と、世界を支える聖女が、毎朝黙って手を握り合っている。
最初は緊張した。二度目は少し楽になった。三度目以降は——慣れた、というよりも、自然になった。朝起きて顔を洗い、茶を飲み、施術を受ける。日常の一部として組み込まれた。呼吸するように、自然に。
しかし「慣れた」と「何も感じない」は違う。
施術中、カインの魔力が身体を巡るたびに、リーリエは温かさを感じる。その温かさは毎日同じはずなのに、毎日少しずつ——深く染み込んでいく気がした。身体が魔力を覚え、温もりを待つようになっている。
今日の施術中。
リーリエはカインの手を見つめていた。大きな手。指が長い。左手の甲に古い紋章の痕跡。手袋を外した素手は荒れている。五百年分の風雨と戦いが刻んだ、硬い手だ。しかしリーリエの手を包むとき、この手は驚くほど優しい。壊れ物を扱うように。
ふと、思った。
「カインさん」
「何だ」
「あなたは、なぜ私のことをそこまで気にかけるのですか」
施術中だった。手を繋いだまま。だからこそ——聞けた。この親密な距離でなければ、聞けなかったかもしれない。相手の体温を感じながらだからこそ、踏み込める問いがある。
「魔王と聖女は本来、敵同士のはずです。少なくとも世間ではそう言われています。あなたが私を拾ったのは『世界が終わるから』でした。けれど——それだけでは、ここまでしないでしょう」
カインの手が一瞬止まった。魔力の流れが僅かに乱れ、すぐに戻った。五百年の修練に裏打ちされた制御力が、動揺を最小限に抑えている。しかしリーリエは感じた。手の中で、カインの脈が僅かに速くなったことを。
「毎日施術をして、甘味を用意して、文献を調べて。砂糖を三杯も入れた茶を淹れて。私一人のために。理由が——『世界のため』だけとは、思えないのです」
沈黙。
カインの深紅の瞳が、リーリエの目を見ていた。逸らさなかった。しかし、そこに迷いがあった。言葉を探しているのではなく——どこまで語るかを測っている迷い。天秤にかけている。今の自分に語れる範囲と、語るべきでない範囲の境界を。
「……約束だ」
カインが言った。低い声。
「昔、誰かと」
それ以上は語らなかった。
約束。昔。誰か。
三つの言葉が、空気の中に浮かんでいた。施術の温かさの中に、冷たい影のように。
リーリエは追及しようとした。「誰ですか」と。喉まで言葉が上がってきた。舌の上で言葉が形を取りかけた。しかし——カインの表情を見て、やめた。
苦しそうだった。
表情は変わっていない。いつもの無愛想な顔。口元は引き結ばれ、眉間に皺はない。しかし目の奥に——古い痛みが浮かんでいた。五百年分の痛みが、一瞬だけ目の表面に上がってきて、すぐに沈んだ。深い水底に沈む石のように。
リーリエはその痛みを見た。見て——知った。この人にも、語れない過去がある。触れれば血が出る傷がある。リーリエが感情を凍結させたように、カインもまた——何かを封じている。
問うべきではない。今は。
リーリエは口を閉じ、数秒待ってから言った。
「いつか話してくれるなら、聞きます」
追及しない。問い詰めない。ただ——いつか話してくれるなら、聞く。その意志だけを伝える。カインがリーリエに「辛いなら辛いと言え」と言ったように。リーリエもまた、カインに「話したいなら話せ」と——言い方は違うが、同じことを返す。
カインが僅かに目を見開いた。
「……お前は」
「はい」
「お前は、聞かないのか」
「聞きたいです。とても。でも——今、あなたがそれを話すのは辛そうですから」
問わない優しさ。マリカがリーリエに見せたそれを、今度はリーリエがカインに返している。枕の湿りに気づいて何も聞かなかったマリカのように。
カインは黙った。長い沈黙。施術の魔力だけが二人の間を流れている。温かい流れ。言葉がなくても、この温もりが二人を繋いでいる。
「……すまない」
「謝ることではありません。誰にでも、すぐには語れないことがあります。私にもありますから」
リーリエの言葉に、カインが微かに目を細めた。お前にも——か。そう思ったのだろう。リーリエの中にも、まだ語られていない場所がある。二人は互いに、閉じた扉を持っている。
「いつか——話す」
「はい。待っています」
施術が終わった。カインが手を離す。しかし今日は——離す動作が、いつもより僅かに遅かった。指先が最後まで触れていた時間が、一秒だけ長かった。その一秒にどんな意味があったのか、カイン自身もわかっていないだろう。リーリエにもわからなかった。ただ、一秒が——やけに長く感じられた。手の温もりが名残惜しかったのかもしれない。施術のためではなく、ただ——手が離れるのが、惜しかった。
カインが部屋を出ていった後、リーリエは一人で考えた。
「誰か」。
カインは、昔、誰かと約束をした。誰かを——守れなかったのかもしれない。守ろうとして、守れなくて。だから今、リーリエを守っている。贖罪として。約束の延長として。
その「誰か」が、リーリエの夢に出てくる炎の中の女性と繋がっているのかどうかは、わからない。しかし——直感が告げていた。繋がっている、と。炎の中に立つ女性。カインが語れない過去。五百年前の約束。
カインの中に、過去の痛みがある。
リーリエは初めて——カインの過去に、関心を持った。
これまで、他者の過去に関心を持ったことはなかった。自分の未来すら気にならなかった。死を望む人間にとって、過去も未来もどうでもいい。「どうでもいい」が、リーリエの世界の色だった。
けれど今。
カインの「誰か」が、気になった。あの人の中にある痛みを、知りたいと思った。指先に残るカインの手の温もりが、その痛みに触れたいという衝動を後押ししている。この手がどんな過去を掴み損ねたのか。どんな手を離してしまったのか。知りたい。
それは——リーリエにとって、小さな、しかし確かな変化だった。
他者に関心を持つこと。他者の痛みを知りたいと願うこと。それは——生きている人間が、することだ。
窓の外で風が鳴った。冬の風が窓枠を揺らし、カーテンが微かに揺れる。リーリエは風の音に耳を傾けた。風にも声がある。この城に来るまで、そんなことを考えたことはなかった。




