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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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甘い毒

 真実が明かされても、日常は続く。朝の光が窓からまっすぐ差し込み、埃が金色に舞っていた。


 それは不思議なことではなかった。むしろ当然のことだった。聖女の命が結界の燃料であることを知っても、朝は来るし、腹は減るし、茶は飲みたくなる。世界の仕組みが残酷であることと、今日の天気が良いことは、矛盾なく共存する。残酷な真実を知った翌日にも、パンは焼けるし、鳥は鳴く。


 リーリエはそのことを——少しだけ、ありがたいと思った。


「お嬢、今日のおやつ、何がいいっすか」


 リュカが厨房から顔を出した。栗色の髪がいつものように跳ねている。エプロンに粉がついているのは、既に何かを作り始めている証拠だ。聞く前から作り始めるのがリュカの流儀で、選択肢を与えるつもりなどないのだろう。


「何でも構いません」


「何でもいいは禁止っすよ。旦那様が三時間悩むんで」


「三時間も悩む必要はないでしょうに」


「旦那様っすからね。お嬢が『何でもいい』って言うと、『リーリエの好みに合うものは何だ』って書庫で調べ始めるんすよ。甘味の歴史を紐解くところから。この前なんか、三百年前の宮廷菓子のレシピを発掘してきましたからね」


「……それは大袈裟では」


「いや、実話っす。しかもそのレシピ、材料が手に入らなくて断念してました。幻の果実が要るとかで」


 リーリエは言葉に詰まった。反論できなかった。カインならやりかねない。というか、やっている。


「では——焼き菓子を。蜂蜜の」


「了解っす。お嬢好きだったでしょ、蜂蜜の焼き菓子」


「覚えているのですね」


「当然っすよ。お嬢の好みは全部把握してます。旦那様に負けないくらい。いや、食べ物に関しては俺のほうが上かも」


 リュカがにっと笑って厨房に戻っていった。琥珀色の瞳がいたずらっぽく光る。


 午後。


 テーブルの上に、蜂蜜の焼き菓子が並んだ。リュカが焼き、マリカが仕上げの蜂蜜をかけた共同作品だという。金色の蜂蜜が焼き菓子の表面をつやつやと光らせている。甘い匂いが食堂に漂い、冬の空気を柔らかくしている。


 リーリエの向かいに、カインが座っている。カイン自身は甘いものを好まないが、リーリエが食べる横で茶を飲む。苦い茶。砂糖なし。それがいつの間にか日課になっていた。リーリエが焼き菓子に手を伸ばすのを見届けてから、自分の茶を口に運ぶ。順序が決まっている。リーリエが一口目を食べるまで、カインは自分の茶に口をつけない。気づいたのは最近のことだ。最初から気をつけていたのか、それとも無意識なのか。おそらく後者だろう。この人の優しさは、いつも無意識だ。


「甘やかしすぎです」


 リーリエが焼き菓子を一つ手に取りながら言った。


「何がだ」


「毎日こうして甘味を用意することです。私はそこまで弱くありません」


「弱いかどうかの問題じゃない。食え」


「食べますが——理由を聞いています」


「理由はない。お前が食うまでやめない。文句は食ってから言え」


 リーリエは焼き菓子を口に運んだ。蜂蜜の甘さが舌に広がる。外は薄く焼けてさくさくと音を立て、中は柔らかい。マリカの焼き加減とリュカの蜂蜜の量が絶妙だった。一つ食べ終える頃には、次に手が伸びていた。


「……悪くないですね」


「だろう」


 カインが満足げに頷いた。自分が食べたわけでもないのに、満足している。リーリエが「美味しい」と言う——正確には「悪くない」だが——それがカインにとっては十分な報酬らしい。


「横暴な魔王ですね」


「何がだ」


「甘味で人を黙らせようとするところが」


「黙っていないだろう。よく喋っている」


「以前より喋るようになったと?」


「ああ。前は三語で会話が終わったが、最近は十語くらいは続く」


「それはあなたが話しかけてくるからです」


「……それは、お前が口実を与えるからだ」


 軽口の応酬。いつもの二人の日常。真実が明かされた後でも——変わらない。聖女が人柱だと知った翌日にも、焼き菓子は甘くて、カインは不遜で、リュカは陽気だ。


 その「変わらなさ」が、リーリエにとっては——言葉にできないほど、大きかった。教会では、儀式の後に労いの言葉すらなかった。「よくやりました」の一言もなく、次の儀式の時間を告げられるだけだった。この城では、甘味が出てくる。「食え」と命じられる。それがどれほど——どれほど温かいことか。


 焼き菓子を食べ終え、茶を飲み干す。リュカが皿を下げに来て、「お嬢、もう一個いけるっすか」と聞く。リーリエが「十分です」と返し、カインが「もう一つ出せ」と横から命じる。リュカが「旦那様の方針で追加一個っす」と笑いながら皿を持ってくる。


 日常だ。何も変わらない日常。


 けれどリーリエの中で、微かに——ほんの微かに——恐れが生まれていた。気づかなければよかった、と思う自分がいる。気づいてしまった以上、もう見ないふりはできない。


 自室に戻り、窓辺に座って考える。窓の外の冬空を見上げる。澄んだ空気が冷たい。


 甘やかされることに、慣れてしまう。この場所が心地よいと感じてしまう。朝の茶も、施術の温かさも、焼き菓子の甘さも、リュカの軽口も、マリカのスープも——すべてが心地よい。一つ一つは小さなことだ。砂糖三杯の茶。蜂蜜の焼き菓子。理由を聞かないスープ。扉越しの足音。どれも取るに足りない、日常の些事。


 しかしそれらが積み重なって——居場所になっている。


 それは——毒ではないだろうか。


 甘い毒。


 ここにいたいと思えば思うほど、いつか奪われたときの痛みが大きくなる。教会が軍勢を送ってくる。この城が攻められる。リーリエが連れ戻される。そうなったとき——この温かさを知ってしまった後では、教会の冷たさが以前よりずっと辛くなる。


 知らなければよかった、と思う日が来るかもしれない。温かさを知らなければ。甘さを知らなければ。ここにいたいと思わなければ。失ったとき、痛みは少なくて済んだはずだ。


 けれど。


 焼き菓子の甘さが、まだ舌に残っている。カインの手の温もりが、まだ掌に残っている。リュカの笑い声が、まだ耳に残っている。


 知ってしまった。味わってしまった。感じてしまった。蜂蜜の甘さを。手の温もりを。「食え」という不器用な優しさを。「お嬢」という呼び名の響きを。「理由は聞きません」というスープの温度を。


 もう知る前には、戻れない。


 リーリエは窓の外を見た。冬の空が広がっている。遠くの山が雪を被って白い。


 甘い毒なら——もう、飲み込んでしまった。


 吐き出す気は——ない。


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