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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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魔王の手

 二度目の施術は、翌日の朝だった。


 カインが「毎日やる」と宣言し、リーリエが「毎日ですか」と少し驚いた顔をした。


「消耗は毎秒続いている。緩和も毎日やらなければ意味がない」


「……道理ですね。反論の余地がありません」


「反論されても困る」


 リーリエの部屋。窓辺の椅子にリーリエが座り、その正面にカインが座る。配置は昨日と同じ。しかし今日は少しだけ——空気が柔らかかった。初めての緊張が薄れ、二人とも肩の力が僅かに抜けている。


 窓からは冬の朝の光が差し込んでいた。白い光がリーリエの髪を照らし、銀灰色が淡い紫に見える瞬間がある。カインはその色を見るたびに、なぜか胸が締まる。五百年前の——いや。今はその記憶を追うべきではない。


「手を」


「はい」


 リーリエが手を差し出す。カインがそれを取る。昨日より、迷いが少ない。リーリエの手は相変わらず冷たかったが、昨日よりも——僅かだが——温かい。施術の効果が残っているのかもしれない。あるいは気のせいか。


 魔力が流れ始めた。温かい流れがリーリエの身体を巡る。結界との接続点に緩衝帯が形成され、消耗の速度が緩やかになる。


 リーリエの表情が、僅かに柔らかくなった。目が半分閉じかけて、すぐに開く。気持ちよさに瞼が落ちそうになったのだろう。リーリエがそんな反応を見せるのは珍しかった。


「効いているな」


「ええ。昨日よりも楽です。身体が慣れてきたのかもしれません」


「慣れたというより、経路ができた。二度目以降は魔力の通り道が馴染んで、効率が上がる」


「なるほど。魔法にも慣らし運転があるのですね」


「例えが庶民的だな」


「庶民ですから。聖女と言っても、出は辺境の農村ですし」


 カインの口元が微かに緩んだ。笑みではない。しかし笑みの手前にある何か。リーリエの軽口は、カインの鎧に隙間を作る。


 軽口。小さな軽口の応酬。施術中の緊張を和らげるための——しかしそれは、二人の間にある信頼の証でもあった。数ヶ月前のリーリエなら、冗談すら言わなかった。


 カインの魔力がリーリエの身体を巡っている。温かさが染み渡る。リーリエはその感覚に目を閉じた。


 二年間、結界に生命力を吸われ続けていた。常に寒かった。身体の芯が冷えていて、どれだけ厚着をしても温まらなかった。教会にいた頃から——冬だけでなく、夏でも冷えていた。マリカが分厚い毛布を何枚も重ねてくれたが、外側からの温かさでは身体の芯までは届かない。


 今、カインの魔力が温かい。


 結界が奪う冷たさを、カインの温かさが一部だけ補っている。完全ではない。三割。しかしその三割が、リーリエの身体にとっては途方もない救いだった。二年間ずっと肩にのしかかっていた見えない重石が、ほんの少しだけ軽くなる。呼吸が楽になる。視界が少し明るくなる。そういう——地味だが確かな変化。


 目を開けた。


 カインの手を見た。自分の手を包む、大きな手。手袋を外した素手。武骨な指。関節が少し太い。剣を握り続けた手だ。五百年間、何かを守ろうとし続けた手。左手の甲に古い紋章の痕跡が薄く残っている。


「……温かいですね」


 呟いた。施術中の感想ではなく——もっと素直な、感覚そのままの言葉。カインの手が温かい。魔力が温かい。それを伝えたかった。ただ、それだけ。


 カインが顔を上げた。深紅の瞳がリーリエを見る。一瞬だけ——何か柔らかいものが瞳の奥を横切った。


「当たり前だ。俺は冷血動物じゃない」


「魔王なのに」


「魔王だからといって冷たいと決めつけるな」


「世間では魔王というと、冷酷で残忍な存在とされていますが」


「世間は俺を知らない。教会が作った虚像を信じているだけだ」


「ええ。知りませんね。甘い茶を淹れて、毎朝手を握ってくれる魔王がいるとは、誰も思わないでしょう」


 カインの耳の先が、僅かに赤くなった——ように見えた。蝋燭の光の加減かもしれない。しかしリーリエは見逃さなかった。


「私は少し、知っています」


 カインが一瞬、言葉に詰まった。視線を逸らす。窓の外に。冬の空が青く広がっている。


「……そうか」


 短い返事。しかしその声には——照れが混じっていた。五百年生きた魔王が、十七歳の少女の一言に照れている。


 施術が終わった。


 カインが手を離す。指先が離れる瞬間、リーリエは——自分の手が、ほんの僅かだけカインの手を追いかけたことに気づいた。無意識の動作。すぐに手を引っ込めたが、心臓が少しだけ速くなった。


 リーリエの手に、魔力の残り温もりがあった。じんわりと。掌全体が温かい。指先まで血が通っているような感覚。


 リーリエは自分の手を見つめた。


 この手が温かいことを——初めて知った。


 教会にいた頃、誰もリーリエの手を握らなかった。聖女は神聖な存在であり、みだりに触れてはならない。そういう規則だった。司祭たちは儀式のときだけ手を取るが、それは人間の手を握っているのではなく、装置を操作しているようなものだった。冷たい指が事務的にリーリエの手首を掴み、魔力の回路を確認する。そこに温もりはなかった。


 母の手を握ったのは、いつが最後だったか。教会に連れて行かれる日——あの日、母が手を伸ばしたのを、使者に遮られた。それが最後だ。もう五年も前のこと。


 カインの手は大きくて、温かかった。


 五百年の孤独を知る手が、リーリエの手を包む。自分の魔力を分け与えて、少しだけ楽にしてくれる。言葉ではなく、温度で守ってくれる。


「……この手が温かいことを、初めて知りました」


 リーリエは独り言のように呟いた。カインに聞かせるつもりはなかったかもしれない。


 しかしカインの耳には届いていた。五百年の孤独で鍛えられた聴覚は、リーリエの小さな呟きを一言も逃さない。


「明日も来る」


「はい」


「明後日も」


「はい」


「嫌になったら言え」


「嫌にはなりません」


 リーリエの返事は即答だった。自分でも驚くほど——迷いがなかった。嫌になるはずがない。この温かさを拒む理由が、リーリエにはもうなかった。


 カインが部屋を出ていく。扉が閉まる。足音が遠ざかる。重い足音。石の廊下を踏む音。


 リーリエは自分の手を見つめていた。まだ温かい。カインの魔力が残している温もり。五分前まで握られていた手が、まだその形を覚えている。


 この温かさに——慣れてしまいそうだ。


 慣れることが怖い。奪われたとき、冷たさが余計に身に沁みるから。教会が軍勢を送ってくる。この城が攻められる。リーリエが連れ戻される。そうなったとき——この温もりを知ってしまった後では。


 けれど——手を引っ込めることは、もうできなかった。


 差し出した手を。引っ込めることは。


 もう。


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