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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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消耗を止める

 カインが研究に没頭し始めたのは、真実を伝えた翌日からだった。朝日が書庫の窓を白く照らしていた。


 書庫に籠り、古代の魔力理論に関する文献を片端から引き出す。聖女の身体と結界の間に介入する方法——結界への生命力の流出を抑える「障壁」を張る魔法。理論上は存在するはずだ。五百年の蓄積が、その可能性を示している。文献の中に、断片的ではあるが「緩衝帯」という概念が記されたものがある。


 三日目。


 ヴェルナーが眼鏡を拭きながら、疲労の色を隠さずに言った。三日間、カインと共に寝る間も惜しんで研究を続けていた。銀縁の眼鏡の奥の目が少し充血している。


「理論的には可能です。聖女の身体と結界の接続点——紋章を中枢とする魔力の経路に、外部から別の魔力を流し込み、緩衝帯を形成する。結界が求める生命力の一部を、外部魔力で代替する方式です」


「代替率は」


「完全ではありません。最大でも三割程度。聖女の命の消耗を完全に止めることはできませんが、速度を緩やかにすることは可能です。一日あたりの減耗が〇・三から〇・二に下がる計算です」


「三割でいい。やれるなら今すぐやる」


「ただし、条件があります」


 ヴェルナーが眼鏡をかけ直し、カインの目を見た。冷静な参謀が、微かに申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「外部魔力を聖女の身体に流し込むには、術者が聖女の身体に直接触れる必要があります。魔力の経路は繊細ですので、物理的接触を通じた伝達が最も効率的です。距離を置いた遠隔操作では精度が足りません」


「直接、触れる」


「はい。具体的には——手と手を合わせ、魔力を流し込む形が理想的です。掌からの伝達が最も自然で、聖女の身体への負荷が最小限になります」


 カインの表情が微かに変わった。ヴェルナーは気づいたが、何も言わなかった。主人の動揺を指摘するほど無粋ではない。


「……わかった」


 カインはリーリエの部屋に向かった。


 廊下を歩きながら、妙に意識している自分に気づいた。手を繋ぐ。たかがそれだけのことだ。施術のためだ。医者が患者に触れるようなものだ。しかし——そう言い聞かせなければならない時点で、カインは自分の心の動きを自覚していた。


 扉を叩く。


「リーリエ。入るぞ」


「どうぞ」


 リーリエは窓辺にいた。読みかけの本を膝に置いて、外を見ていた。冬の午後の光が銀灰色の髪を照らしている。カインが入ってくると、視線を向けた。薄い青紫の瞳。穏やかだが、少しだけ——光がある。数ヶ月前の虚ろさとは違う。


「何かわかりましたか」


「方法を見つけた。お前の消耗を——完全にではないが、ある程度抑えられる」


 リーリエが僅かに目を見開いた。驚きだ。小さいが、確かな驚き。


「本当ですか」


「ああ。俺の魔力をお前の身体に流し込んで、結界への消耗を緩和する。理論上は三割程度軽減できる」


「三割……」


「少ないと思うか」


「いいえ。十分です。ゼロとの差は大きいですから。ゼロと三割は無限に違います」


 リーリエの声に、僅かな安堵が混じった。微かだが——カインは聞き逃さなかった。リーリエの声に感情の色が混じることは稀だ。それがあるということは——本当に、安堵しているのだ。


「ただ、条件がある」


「何でしょう」


「お前の身体に直接魔力を通す必要がある。手を——繋ぐ必要がある」


 沈黙。


 リーリエの表情が変わった。ほんの僅か。しかし確かに。平静を装った顔の下で、何かが動いた。頬に微かな血の色が差した——ように見えた。


「……手を?」


「ああ。手と手を合わせて、魔力を流す。他に効率的な方法がない。ヴェルナーに確認した」


 リーリエが自分の手を見つめた。膝の上に置かれた、白い手。指が細く、爪が短く切られている。聖女の紋章が掌の下で淡く光っている。


「嫌なら——」


「いいえ」


 リーリエが遮った。カインの「嫌なら」を、最後まで言わせなかった。


「お願いします」


 手を差し出した。膝の上から持ち上げ、カインに向けて。指先が僅かに震えていたかもしれない。しかしリーリエの声は落ち着いていた。決意のある声。


 カインが椅子を引き寄せ、リーリエの正面に座った。二人の膝が触れそうな距離。向かい合う。蝋燭の光が二人の間を照らしている。窓から差し込む午後の光が、リーリエの銀灰色の髪に小さな虹を散らしていた。


 カインは手袋を外した。左手の甲の紋章の痕跡が露わになる。リーリエの視線がそこに一瞬向いたが、何も言わなかった。


 リーリエの手を取った。


 小さい。冷たい。しかし確かに、生きている人間の手だ。脈が微かに感じられる。聖女の紋章の鼓動とは違う——リーリエ自身の、命の脈動。かすかだが確かに、トクトクと打っている。


 カインは目を閉じ、集中した。


 魔力を練る。自分の中にある膨大な魔力——五百年分の蓄積を、細い糸のように紡ぎ出す。荒々しい力ではなく、繊細な制御。戦場で敵を薙ぎ払う力とは対極の、針に糸を通すような精密さ。リーリエの身体を壊さないように。結界との接続を乱さないように。


 魔力がカインの手からリーリエの手に流れ込んだ。


 リーリエが息を呑んだ。


「——温かい」


 カインの魔力が身体に入ってくる感覚。それは痛みではなかった。温かさだった。結界が奪い続ける冷たさとは真逆の——温かい流れが、身体の中を巡っている。血管の中を温かい水が流れるような感覚。指先から手首へ、手首から肘へ、肘から肩へ。全身に温もりが広がっていく。


 魔力がリーリエの体内の経路を辿り、結界との接続点に到達する。そこで緩衝帯を形成し始める。結界が求める生命力の一部を、カインの魔力が肩代わりする。


 効いている。


 リーリエの身体から、微かに——しかし確かに——重荷が軽くなった。二年間ずっと肩にのしかかっていた重石の一部が、取り除かれたような。


「……少し、楽になりました」


 リーリエの声が微かに震えていた。驚きの震え。二年間、一度も楽になったことがなかった。一秒も途切れなかった重さが、今——少しだけ軽い。


「まだ完全じゃない。しばらく続ける」


 カインは手を離さなかった。リーリエの手を包んだまま、魔力を流し続けた。


 二人の間に言葉はなかった。静かな部屋に、魔力の流れる微かな音だけが響いている。窓の外では冬の日が傾き始め、部屋の中の影が長くなっていく。


 リーリエはカインの手を見ていた。自分の手を包む大きな手。黒い手袋は外している。左手の甲に、古い紋章の痕跡が見えた。何の紋章なのかはわからない。しかしそれは——カインの過去の一部だ。


 この手が、自分の重荷を少しだけ引き受けてくれている。


 その事実が——胸の奥で、静かに響いた。


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