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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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涙の行方

 マリカは聡い女性だった。


 魔王城の家事を一手に引き受ける従者として、城の隅々まで目が届く。誰が何時に起きて、何時に眠り、何を食べ、何を食べ残したか。すべてを把握している。それは職務でもあるが——マリカの性分でもあった。見て見ぬふりができない性格。困っている人間がいれば、手を差し伸べずにはいられない。リュカはそれを「マリカさんの母性本能」と呼び、マリカはそのたびに「母性ではありません。常識です」と返す。


 その日の午前中、マリカはリーリエの部屋を掃除していた。


 リーリエは庭に出ている。カインが「外の空気を吸え」と半ば強引に連れ出した。リーリエは「寒いのですが」と言いながらも従っていた。最近はカインの提案に対する抵抗が減っている。それはリーリエが従順になったからではなく、カインの提案が悪くないと学んだからだろう。あの二人の日課が一つ増えたことを、マリカは微笑ましく見ていた。


 ベッドのシーツを整える。皺を伸ばし、角を揃える。枕カバーを交換しようと枕に手を伸ばしたとき——指先に湿りを感じた。


 マリカの手が止まった。


 枕が、湿っている。


 冷たい湿り。雨漏りではない。天井に染みはなく、壁にも水の痕跡はない。窓は閉まっていた。部屋の中に水気の原因はない。枕の湿りの原因は一つしかない。


 泣いていたのだ。


 リーリエが、夜、この枕に顔を埋めて泣いていた。声を殺して。誰にも聞かれないように。枕が涙を吸い、朝になっても乾ききらなかった。


 マリカは数秒間、枕を見つめた。赤毛の三つ編みが肩から前に垂れた。手の中の枕の重さが——ずしりと、胸に来た。


 カインには報告しない。


 即座にそう決めた。


 リーリエの涙は、リーリエのものだ。勝手に他人に渡すものではない。あの子が泣いていたことを知れば、カインは動揺する。カインの動揺はリーリエの前で表に出る。それはリーリエを更に追い詰める。「私のせいでカインさんが心配している」と——あの子は自分を責める。今はそれぞれが自分のやり方で消化する時間が必要だ。


 マリカはそう判断した。静かに枕カバーを交換し、新しいカバーをかけた。枕の中身は日当たりのいい場所で乾かすことにする。リーリエが戻ってきたとき、何も変わっていないように。


 昼過ぎ。


 リーリエが庭から戻ってきた。頬が冷たい風で薄く赤らんでいる。カインに連れ出される前と後では、顔色が僅かに良くなっていた。外の空気が血の巡りを良くしたのだろう。あるいはカインと過ごした時間が、心のほうの血の巡りも良くしたのかもしれない。


 マリカは厨房で温かいスープを作った。冬野菜と鶏の出汁のスープ。リュカのレシピではなく、マリカの故郷の味。素朴で優しい、身体の芯から温まるスープだ。蕪と人参と玉葱を細かく切り、鶏の骨から丁寧に出汁を取る。塩は控えめに。胡椒は少しだけ。余計な味は要らない。温かさと優しさだけが伝わればいい。


 リーリエの部屋の前で、盆を持って立った。湯気が立ち上り、廊下に良い匂いが漂う。


「リーリエ様。お邪魔してよろしいですか」


「どうぞ」


 扉を開ける。リーリエは窓辺の椅子に座っていた。本を膝に置いているが、ページが進んでいる気配はない。いつもそうだ。本を開いてはいるが、読んではいない。考え事をしている。


「少し冷えますから。温かいものをどうぞ」


 マリカが盆をテーブルに置く。湯気が立ち上り、部屋にスープの匂いが広がった。鶏と野菜の、素朴な匂い。


「……ありがとうございます。わざわざ」


「いいえ。冬は冷えますので。お身体、冷やさないでくださいね」


 リーリエがスープの器に手を伸ばし、両手で包んだ。器の温もりが指先に伝わる。白い指が、器の表面で少しだけ震えた。


「マリカさん」


「はい」


「何か、気づいて——」


 リーリエが言いかけて、止めた。目を逸らした。窓の外を見た。


 マリカは穏やかに微笑んだ。


「理由は聞きません」


 それだけだった。


 理由は聞かない。何があったかは聞かない。なぜ枕が湿っていたかも、なぜ指先が震えていたかも。何も聞かない。問い詰めない。「大丈夫ですか」とも聞かない。


 ただ、温かいスープを持ってきた。それだけ。


 リーリエが一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——目を伏せた。


 睫毛が震えた。泣いているのではない。感情の凍結はまだ解けていない。涙は出ない。しかし何かが——胸の奥の深い場所で、微かに揺れた。問い詰められなかった安堵。それでいて理解されている温もり。その二つが混ざった、名前のない感情。


「……ありがとう、ございます」


 声が少し掠れていた。


 マリカは頷き、静かに部屋を出た。扉を閉める前に「ゆっくり召し上がってくださいね」と一言添えて。赤毛の三つ編みが廊下に消えた。


 一人になったリーリエは、スープの器を両手で包んだまま、しばらく動かなかった。


 温かい。


 器から手のひらに伝わる温度。スープの湯気が顔を撫でる。鶏の出汁と冬野菜の匂い。素朴で、飾り気がなくて、ただただ温かい。誰かが自分のために時間をかけて作ってくれた温かさ。


 一口飲んだ。


 温かさが喉を通り、胸を通り、身体の中心に落ちていく。冬の冷えが内側から溶けるような感覚。蕪が柔らかく煮えていて、舌の上でほどける。


「……温かい」


 呟いた。


 教会にいた頃、こんなふうに温かいものを持ってきてくれる人はいなかった。食事は出されたが、「理由は聞きません」と言ってくれる人はいなかった。泣いた痕跡に気づいて、何も言わずにスープを作ってくれる人は。教会で出される食事は、栄養を摂取するためのものだった。温もりを届けるためのものではなかった。


 マリカは聞かなかった。何も。


 聞かないことが——優しさだった。


 問い詰められたら崩れていたかもしれない。「大丈夫ですか」と聞かれたら、「大丈夫です」と答えるしかなかった。しかしマリカは聞かなかった。代わりにスープを持ってきた。言葉ではなく温度で。理由ではなく行動で。


 もう一口飲む。温かい。優しい味がする。


 涙は出ない。感情は凍結している。しかし——「温かい」と感じられる自分がいることに、リーリエは少しだけ驚いた。


 感情が完全に死んでいるなら、温かさも感じないはずだ。美味しさも、心地よさも。けれど今、リーリエの中には確かに「温かい」がある。


 凍っていても——完全には死んでいない。


 どこかで、何かが、まだ息をしている。


 スープを飲み干した。器の底に残った最後の一滴まで。空になった器を見つめて、リーリエは小さく息をついた。


 窓の外では、冬の日差しが庭の枯れ木を照らしている。春にはまた芽吹くのだろうか。枯れたように見えても、根は生きている。


 ——根は、生きている。


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