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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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震える手

 翌朝。


 リーリエは、いつも通りだった。


 朝の茶の時間に食堂に現れ、いつもの席に座り、カインが淹れた茶を受け取った。銀灰色の髪は寝起きのまま少し乱れていたが、いつもそうだ。手入れに無頓着なのは教会にいた頃からだと、リュカが以前言っていた。白い肌は相変わらず不健康なほどに透き通っている。


 一口飲んで、言った。


「不味くはないですね」


 いつもの言葉。いつもの声。いつもの表情。


 カインは向かいの席から、リーリエを見ていた。昨夜の重い話があったとは思えない落ち着きぶりだ。聖女の命が燃料だと告げられた翌朝に、同じ茶を飲み、同じ感想を口にしている。その「変わらなさ」に安堵しかけた。


 しかしカインの目は、微かな違和感を捉えていた。


 指先だ。


 茶杯を持つリーリエの指先が、僅かに震えている。ほんの微か。茶の水面が一定のリズムで揺れている。普通の人間には気づかない程度の揺れ。しかしカインの目は見逃さなかった。五百年分の観察眼が、リーリエの指先の震えを正確に捉えている。


 昨夜、泣いたのだろうか。あるいは一睡もできなかったか。どちらにしても——リーリエの身体は嘘をつけない。口では平気だと言っても、指先は震えている。


 問うべきか、黙っているべきか。数秒迷って——問うことにした。黙っているのは不誠実だ。昨日、それを学んだばかりだ。真実を隠さないこと。それがカインの選んだ道だ。


「指が震えている」


 リーリエの動きが一瞬止まった。茶杯を口に運ぶ途中で。


「……気のせいです」


「気のせいではない。茶の水面が揺れている」


 カインは断言した。声は穏やかだが、有無を言わせない力がある。指摘すると決めた以上、曖昧にはしない。


 リーリエが茶杯を置いた。音がしないほど静かに。両手を膝の上に降ろし、指を組んだ。震えを隠すように。しかしその「隠す」動作自体が、震えていることの証明だった。


「辛いなら、辛いと言え」


 カインの声が低く響いた。食堂の空気が少し張りつめる。壁の燭台の炎が微かに揺れた。


「俺の前で強がる必要はない。お前が辛いときに辛いと言える場所が、ここだ。この城は——そういう場所にする。そうでなければ、お前をここに置いた意味がない」


 言葉が多い。自分でもわかっている。普段のカインなら「辛いなら言え」の一言で終わる。しかし今日は——言葉を重ねずにいられなかった。リーリエの指先の震えが、カインの胸に刺さっていた。あの指先は昨夜、一人で震えていたのだ。月明かりの下で、誰にも見せずに。


 リーリエは数秒間、膝の上の手を見つめていた。組んだ指の間から、紋章の淡い光が漏れている。それから顔を上げた。


「辛いとは思いません」


 淡々と。


「事実を知っただけです。事実は辛いも辛くないもありません。ただの事実です。雨が降ることを辛いとは言わないでしょう。空が青いことを辛いとは言わないでしょう。私の命が燃料であることも——ただの事実です」


 論理的だった。筋が通っている。反論の余地がない。


 しかし——膝の上の指は、まだ震えていた。


 カインは唇を引き結んだ。強がりだ。明らかな強がり。リーリエの言葉は論理的に正しいが、身体は事実に動揺していると告げている。口だけが平然を装っている。五年間ずっとそうしてきたのだろう。教会の中で、一人で、こうして平然を装い続けてきた。


 しかし——崩すべきではなかった。五百年で学んだ。凍った心は、外から叩いて砕くものではない。


 今この瞬間にリーリエの防壁を無理やり崩せば、リーリエは壊れるかもしれない。凍結した感情を一気に溶かせば、鬱積した痛みが雪崩のように押し寄せる。それはリーリエの回復ではなく、崩壊だ。氷は少しずつ溶かさなければならない。急いてはいけない。


 だから、カインは引いた。


「……わかった」


 茶杯に手を伸ばし、自分の分を一口飲む。沈黙を受け入れる。リーリエが平然を装いたいなら、今は——装わせる。


 しかし一つだけ、言い添えた。


「辛いと思ったら——いつでも言え。昼でも夜でも。俺は聞く」


 言い切った。カインの声には、静かな力があった。命令ではない。約束だ。この城にいる限り、リーリエは一人で耐えなくていい——そう言っている。


 リーリエが答えなかった。しばらく膝の上の手を見つめてから、ゆっくりと茶杯を手に取り、一口飲んだ。いつもの動作。


「……この茶、少し甘くないですか」


「砂糖を多めに入れた」


「聞いていません」


「聞かれる前に入れた。疲れているときは甘いものがいい」


「疲れていません」


「指が震えている人間に言われても説得力がない」


 リーリエが僅かに目を細めた。呆れたような、しかし不快ではない表情。怒りでもない。何だろう——この表情は。


「あなたは本当に——」


「何だ」


「……いいえ。何でもありません」


 茶を飲む。カインが勝手に甘くした茶を。砂糖が多すぎて舌がひりつくような甘さ。しかし不思議と——悪い気はしなかった。


 朝食を終え、リーリエが食堂を出ていった。足取りはいつも通り。背筋は伸びている。振り返らなかった。


 一人残されたカインは、リーリエが使った茶杯を見つめた。杯の縁に、茶の跡が残っている。飲み干してくれた。砂糖だらけの茶を。杯の底に砂糖が少し溶け残っている。白い結晶が、冷えた茶の中で沈んでいた。


「……あいつは、ずっとあんな顔で耐えてきたのか」


 呟いた。誰にも聞かせるつもりのない声。


 ずっと。五年間。いや、もっと前から。教会にいた頃から、あの穏やかな顔の下で——一人で、すべてを飲み込んできた。辛いとも言えず、泣くこともできず、「事実です」と自分を納得させ続けて。


 窓の外で、雪が降り始めていた。細かい雪が風に舞い、食堂の窓硝子に小さく当たる音がする。冬が深まっている。リーリエがこの城に来てから、二度目の雪だ。


 五百年前の記憶が重なった。


 初代聖女も——最後まで笑っていた。「大丈夫」と言っていた。「大丈夫、私は平気」と。そして——炉の前に立った。カインが止める間もなく。最後まで強がって、最後まで一人で抱え込んで。


 同じだ。リーリエも——同じことをしている。


 カインは拳を握った。


「今度は——」


 声が掠れた。


「今度は、間に合わせる」


 立ち上がった。書庫に向かう。リーリエの消耗を抑える方法を見つけなければならない。真実を伝えただけでは足りない。言葉だけではリーリエを守れない。


 行動で示す。それしか、カインには——不器用なこの男には、方法がなかった。


 廊下を歩く足音が、石の壁に反響する。重い足音だった。しかし迷いはない。迷っている暇はなかった。


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