表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/74

もう、知っていた

 執務室の扉を閉めたとき、蝋燭の炎が揺れた。扉の蝶番が微かに軋む音がした。


 カインが机の前に立ち、リーリエが向かい合うように立っている。窓から差す午後の光が二人の間を横切り、埃が光の中をゆっくりと舞っていた。


 カインの表情は硬かった。言葉を探している。どう切り出すか、何から伝えるか——五百年分の知識と感情を、どう言葉にすればいいのか。


「聖女の——お前の身体について、わかったことがある」


 声が硬い。自分でもわかっている。しかし柔らかくする余裕がなかった。


 リーリエが静かにカインの目を見た。薄い青紫の瞳。虚ろではない。真っ直ぐに、こちらを見ている。


「聞きます」


 一言。待つ姿勢。リーリエは急かしもしなければ、怖がりもしなかった。ただ静かに、カインの言葉を待っている。


 カインは言葉を選んだ。慎重に。文献の記述をそのまま読み上げるか。それとも噛み砕いて伝えるか。どちらにしても、伝えなければならない中身は変わらない。


「お前の身体が消耗している原因が——」


「聖女の命が結界の燃料——そうなのですね」


 リーリエが、先に言った。


 カインの言葉が途切れた。口を開いたまま、数秒。


「……何だと」


「聖女の命が、結界を支える燃料になっている。そういうことでしょう」


 リーリエの声は淡々としていた。いつもと変わらない。穏やかで、感情の起伏が少なく、事実を述べるような口調。


「……知っていたのか」


「知っていた、というほどではありません。ただ——薄々、感じていました」


 リーリエが自分の左胸に手を当てた。聖女の紋章がある場所。


「身体が削れていく感覚は、覚醒したときからずっとありました。力を使っているのだと思っていましたが——力ではなく、命だろうとは、いつの頃からか感じていました。身体の衰えが、力の消耗にしては早すぎたので」


 淡々と。まるで他人の身体の話をしているかのように。


 カインは言葉を失った。


 知っていた。リーリエは知っていた。自分の命が燃料として消費されていることを。身体が蝕まれ続けていることを。教会の「崇高な使命」の裏にある真実を。


 知りながら——誰にも言わなかった。二年間。一人で。あの穏やかな顔の下で、自分の命が燃やされていることを知りながら、誰にも言わず、痛みに耐え続けた。


「……なぜ黙っていた」


 カインの声が低く震えた。怒りではない。悲しみだ。


 リーリエが小さく首を傾げた。不思議そうに。


「誰に言えばよかったのですか」


 その一言が、カインの胸を貫いた。


 誰に。


 教会は真実を知った上でリーリエを利用していた。司祭たちは「崇高な犠牲」と美化していた。友人はいなかった。家族は引き離された。リーリエの周りには——打ち明ける相手が、一人もいなかった。


 自分の命が燃料にされていることを知りながら、誰にも言えない。言っても意味がない。変わらない。だから黙って、痛みに耐え続けた。


 その孤独の深さに、カインは言葉が出なかった。五百年生きてきた。孤独には慣れていると思っていた。しかしリーリエの孤独は——誰にも真実を言えず、言っても変わらないと悟り、黙ることすら選択ではなく当然のことになっていた孤独は——カインの知る孤独とは質が違っていた。


 沈黙が落ちた。


 長い沈黙。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を這う。窓の外で風が木の枝を揺らす音がする。どこかで小鳥が鳴いた。冬の空気を裂くような、甲高い声。遠くで、リュカが何かを歌っている声が微かに聞こえた。調子の外れた陽気な旋律。日常の音だ。しかし今この部屋は、日常から切り離されている。リーリエの小さな独白が、この部屋の空気をまるごと変えてしまった。


「カインさん」


 リーリエが先に口を開いた。


「そんな顔をしないでください」


「どんな顔をしている」


「……辛そうな顔です。まるで、あなたが痛いみたいに」


 カインは答えなかった。答えられなかった。


 リーリエが一歩近づいた。


「私は大丈夫です。知っていたことが確認されただけですから。驚きはありません」


「驚きがないことが、問題なんだ」


 カインの声が低く響いた。


「お前の命が燃やされていると知って、驚きもしない。怒りもしない。泣きもしない。——それがどれほど異常なことか、お前自身がわかっていない」


 リーリエが目を僅かに見開いた。


 カインの言葉には熱があった。怒りではない。もっと深い——悲しみの熱。


「感情を凍結させて、痛みを感じなくさせて、自分の命が燃やされていることすら平然と受け入れる。それを教会は『崇高』と呼んだ。俺はそう呼ばない」


「では、何と」


「——残酷だ」


 沈黙が落ちた。


 リーリエはカインの目を見ていた。深紅の瞳が揺れている。蝋燭の炎ではない。感情が、揺らしている。


「……残酷、ですか」


「ああ。残酷だ。お前に起きていることは、残酷以外の何物でもない」


 リーリエは答えなかった。しばらく黙って、それから視線を落とした。


「……誰にもそう言われたことが、ありませんでした」


 小さな声だった。いつもの淡々とした声とは少し違う。僅かに——ほんの僅かに——震えていた。


「残酷だと、言ってくれたのは——あなたが初めてです」


 カインは何も言えなかった。喉が詰まっていた。五百年の間に幾千の言葉を覚えたが、今この瞬間に必要な言葉は、一つも持っていなかった。


 ただ、そこに立っていた。リーリエの小さな声を聞いて、自分の拳が握られていることに気づいて、それでも何も言えなかった。


 リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳。感情は凍結している。涙は出ない。しかしその目の奥に——何か、微かな光のようなものがあった。


「カインさん。あなたが調べてくれたこと、ちゃんとわかっています。ありがとうございます」


「礼はいらない」


「でも、言いたいので」


 リーリエが小さく頷いた。自分に言い聞かせるように。


「明日から、何が変わるわけでもありません。でも——知ってくれている人がいるのは、少しだけ、違います」


 声は穏やかだった。しかし「少しだけ、違います」の「少しだけ」に、言い表せない重みがあった。リーリエにとっての「少し」は、他の人間にとっての「大きく」だ。凍結した感情が許す、精一杯の表現。


 その言葉を残して、リーリエは執務室を出ていった。


 カインは一人残された。窓の外を見た。冬の空が高い。


 知っていた。リーリエは知っていた。一人で抱え込んで、誰にも言えず、痛みに慣れて、感情を凍らせて。


 その孤独を、二度と繰り返させない。もう一人にはさせない。


 カインは拳を開いた。震えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ