もう、知っていた
執務室の扉を閉めたとき、蝋燭の炎が揺れた。扉の蝶番が微かに軋む音がした。
カインが机の前に立ち、リーリエが向かい合うように立っている。窓から差す午後の光が二人の間を横切り、埃が光の中をゆっくりと舞っていた。
カインの表情は硬かった。言葉を探している。どう切り出すか、何から伝えるか——五百年分の知識と感情を、どう言葉にすればいいのか。
「聖女の——お前の身体について、わかったことがある」
声が硬い。自分でもわかっている。しかし柔らかくする余裕がなかった。
リーリエが静かにカインの目を見た。薄い青紫の瞳。虚ろではない。真っ直ぐに、こちらを見ている。
「聞きます」
一言。待つ姿勢。リーリエは急かしもしなければ、怖がりもしなかった。ただ静かに、カインの言葉を待っている。
カインは言葉を選んだ。慎重に。文献の記述をそのまま読み上げるか。それとも噛み砕いて伝えるか。どちらにしても、伝えなければならない中身は変わらない。
「お前の身体が消耗している原因が——」
「聖女の命が結界の燃料——そうなのですね」
リーリエが、先に言った。
カインの言葉が途切れた。口を開いたまま、数秒。
「……何だと」
「聖女の命が、結界を支える燃料になっている。そういうことでしょう」
リーリエの声は淡々としていた。いつもと変わらない。穏やかで、感情の起伏が少なく、事実を述べるような口調。
「……知っていたのか」
「知っていた、というほどではありません。ただ——薄々、感じていました」
リーリエが自分の左胸に手を当てた。聖女の紋章がある場所。
「身体が削れていく感覚は、覚醒したときからずっとありました。力を使っているのだと思っていましたが——力ではなく、命だろうとは、いつの頃からか感じていました。身体の衰えが、力の消耗にしては早すぎたので」
淡々と。まるで他人の身体の話をしているかのように。
カインは言葉を失った。
知っていた。リーリエは知っていた。自分の命が燃料として消費されていることを。身体が蝕まれ続けていることを。教会の「崇高な使命」の裏にある真実を。
知りながら——誰にも言わなかった。二年間。一人で。あの穏やかな顔の下で、自分の命が燃やされていることを知りながら、誰にも言わず、痛みに耐え続けた。
「……なぜ黙っていた」
カインの声が低く震えた。怒りではない。悲しみだ。
リーリエが小さく首を傾げた。不思議そうに。
「誰に言えばよかったのですか」
その一言が、カインの胸を貫いた。
誰に。
教会は真実を知った上でリーリエを利用していた。司祭たちは「崇高な犠牲」と美化していた。友人はいなかった。家族は引き離された。リーリエの周りには——打ち明ける相手が、一人もいなかった。
自分の命が燃料にされていることを知りながら、誰にも言えない。言っても意味がない。変わらない。だから黙って、痛みに耐え続けた。
その孤独の深さに、カインは言葉が出なかった。五百年生きてきた。孤独には慣れていると思っていた。しかしリーリエの孤独は——誰にも真実を言えず、言っても変わらないと悟り、黙ることすら選択ではなく当然のことになっていた孤独は——カインの知る孤独とは質が違っていた。
沈黙が落ちた。
長い沈黙。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を這う。窓の外で風が木の枝を揺らす音がする。どこかで小鳥が鳴いた。冬の空気を裂くような、甲高い声。遠くで、リュカが何かを歌っている声が微かに聞こえた。調子の外れた陽気な旋律。日常の音だ。しかし今この部屋は、日常から切り離されている。リーリエの小さな独白が、この部屋の空気をまるごと変えてしまった。
「カインさん」
リーリエが先に口を開いた。
「そんな顔をしないでください」
「どんな顔をしている」
「……辛そうな顔です。まるで、あなたが痛いみたいに」
カインは答えなかった。答えられなかった。
リーリエが一歩近づいた。
「私は大丈夫です。知っていたことが確認されただけですから。驚きはありません」
「驚きがないことが、問題なんだ」
カインの声が低く響いた。
「お前の命が燃やされていると知って、驚きもしない。怒りもしない。泣きもしない。——それがどれほど異常なことか、お前自身がわかっていない」
リーリエが目を僅かに見開いた。
カインの言葉には熱があった。怒りではない。もっと深い——悲しみの熱。
「感情を凍結させて、痛みを感じなくさせて、自分の命が燃やされていることすら平然と受け入れる。それを教会は『崇高』と呼んだ。俺はそう呼ばない」
「では、何と」
「——残酷だ」
沈黙が落ちた。
リーリエはカインの目を見ていた。深紅の瞳が揺れている。蝋燭の炎ではない。感情が、揺らしている。
「……残酷、ですか」
「ああ。残酷だ。お前に起きていることは、残酷以外の何物でもない」
リーリエは答えなかった。しばらく黙って、それから視線を落とした。
「……誰にもそう言われたことが、ありませんでした」
小さな声だった。いつもの淡々とした声とは少し違う。僅かに——ほんの僅かに——震えていた。
「残酷だと、言ってくれたのは——あなたが初めてです」
カインは何も言えなかった。喉が詰まっていた。五百年の間に幾千の言葉を覚えたが、今この瞬間に必要な言葉は、一つも持っていなかった。
ただ、そこに立っていた。リーリエの小さな声を聞いて、自分の拳が握られていることに気づいて、それでも何も言えなかった。
リーリエが顔を上げた。薄い青紫の瞳。感情は凍結している。涙は出ない。しかしその目の奥に——何か、微かな光のようなものがあった。
「カインさん。あなたが調べてくれたこと、ちゃんとわかっています。ありがとうございます」
「礼はいらない」
「でも、言いたいので」
リーリエが小さく頷いた。自分に言い聞かせるように。
「明日から、何が変わるわけでもありません。でも——知ってくれている人がいるのは、少しだけ、違います」
声は穏やかだった。しかし「少しだけ、違います」の「少しだけ」に、言い表せない重みがあった。リーリエにとっての「少し」は、他の人間にとっての「大きく」だ。凍結した感情が許す、精一杯の表現。
その言葉を残して、リーリエは執務室を出ていった。
カインは一人残された。窓の外を見た。冬の空が高い。
知っていた。リーリエは知っていた。一人で抱え込んで、誰にも言えず、痛みに慣れて、感情を凍らせて。
その孤独を、二度と繰り返させない。もう一人にはさせない。
カインは拳を開いた。震えていた。




