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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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奥の間

 回想は続く。


 教会の奥の間。リーリエが聖女として正式に任命された日の翌朝、大司教に再び呼ばれた。


 今度は大司教の執務室だった。前日の広間よりも狭く、しかし調度品は豪華だった。金の燭台が三本、机の上に並んでいる。紫の絨毯が床を覆い、壁には聖典の一節が金文字で刻まれている。「世界を守りし聖女に栄光あれ」——美しい金文字で。壁に刻まれた美しい言葉。しかしリーリエはもう知っている。美しい言葉の裏に何があるのかを。


 大司教が机の向こう側に座り、リーリエを見下ろした。昨日と同じ蛇の目。しかし今日は微笑みすらなかった。事務的な顔。道具の使い方を説明する職人の顔。あるいは——家畜の世話をする農夫の顔。対象を「人」としてではなく「もの」として見る目。


「リーリエ。今日はあなたの使命について、もう少し詳しくお話しします」


「はい」


 十二歳のリーリエは、背筋を伸ばして椅子に座っていた。教会で与えられた白い聖衣は体に合っておらず、袖が余っている。足がぶらぶらと宙に浮いていた。椅子が大きすぎたのだ。子供用の椅子など、教会にはない。聖女は子供ではなく聖女だ。


「世界は結界によって守られています。災厄——魔物、瘴気、あらゆる脅威から人間を守る、目に見えない壁です。この結界がなければ、人間は一日として生きられません」


「はい」


「その結界を支えているのが、聖女の力です。あなたの中にある、特別な力」


 大司教の指が机の上の古い書物を撫でた。黄ばんだ羊皮紙の表紙。古代語で何かが書かれている。


「あなたの命が、世界を支えるのです」


 命。


 十二歳のリーリエは、その言葉の重さを理解しなかった。「力」と「命」の区別がつかなかった。力を使う、ということだと思った。魔法使いが魔法を使うように、聖女が力を使って結界を支える。力を使うと疲れる——その程度のことだと。


「崇高な犠牲です」


 大司教が微笑んだ。今度は微笑んだ。しかしその微笑みの中に、温度はなかった。炎のない燭台のようだった。形はあるが、光がない。


「誰もがあなたに感謝するでしょう。歴代の聖女たちは皆、この使命を誇りとしてきました」


「犠牲……ですか?」


 リーリエが問い返した。「犠牲」という言葉だけが、引っかかった。知っている言葉だ。村の教会で聞いたことがある。神に捧げ物をするとき、その捧げ物を「犠牲」と呼ぶ。羊を捧げる。麦を捧げる。——命を捧げる?


「ええ。自らの命を捧げて世界を守る。これほど崇高なことがありましょうか」


 捧げる。命を。


 大司教の声は穏やかで、まるで子守唄のようだった。しかし語られている内容は——子守唄とは程遠い。十二歳の少女に「命を捧げろ」と告げている。穏やかな声で。微笑みながら。まるで「明日の天気は晴れですよ」と言うような調子で。


 十二歳のリーリエは頷いた。理解していなかった。「命を捧げる」という言葉は、言葉でしかなかった。痛みも恐怖も実感もない。ただ偉い人にそう言われたから頷いた。それだけのことだった。言葉の意味を、頭ではなく身体で知るのは——もう少し先のことだった。


 最初の儀式は、聖女に任命されてから一月後だった。


 教会の地下。祈りの間と呼ばれる場所。壁一面に聖句が刻まれ、天井から鎖で吊るされた香炉が白い煙を吐いている。煙が目に染みる。香の匂いが鼻を刺す。甘ったるい、しかし何処か不吉な匂い。


 部屋の中央に円形の祭壇があり、リーリエはそこに跪かされた。冷たい石の感触が膝に伝わる。


 周囲を司祭たちが取り囲んでいる。白い法衣。低い詠唱。蝋燭の炎が揺れ、影が壁を這う。十二人の司祭が、円を描くようにリーリエを囲んでいた。


「始めます」


 大司教の声。遠くから聞こえた。大司教は祭壇のそばにはいなかった。離れた高台から、見下ろしている。道具の動作を確認する職人のように。


 リーリエの身体に、何かが流れ込んだ。


 ——痛い。


 それは「痛い」という言葉では足りなかった。全身の血管を内側から灼かれるような。骨の髄を白熱した針で刺されるような。皮膚の裏側を火で炙られるような。


 叫んだ。


 十二歳の少女が、教会の地下で叫び声を上げた。声が石壁に反響し、何重にも重なって返ってくる。自分の悲鳴が自分を包んでいる。助けてと叫びたかったが、言葉にならなかった。ただ声が出た。意味のない叫びが。


「聖女様の力が世界を守っているのです」


 司祭の声が、苦痛の中で遠く聞こえた。詠唱は止まらない。リーリエが叫んでも、誰も手を止めない。


「耐えてください。崇高な使命です」


 崇高な使命。あの美しい言葉が、今は棘のように胸に刺さる。崇高。犠牲。使命。全部——全部、嘘だ。嘘ではないかもしれないが、嘘と同じだ。美しい言葉で痛みを正当化しているだけだ。


 苦痛は三十分ほど続いた。しかしリーリエにとっては永遠だった。時間の感覚が溶けて消えた。始まりと終わりの区別がつかない。ただ痛みだけが世界のすべてだった。


 儀式が終わったとき、リーリエは祭壇の上に崩れ落ちていた。意識は朦朧とし、全身が汗と涙でびしょ濡れだった。聖衣が身体に貼りつき、冷たく重い。石の祭壇が頬に当たっている。冷たい。すべてが冷たい。


 そして——気づいた。


 痛みが、消えていない。


 儀式が終わっても、胸の奥に鈍い痛みが残っている。激痛ではない。しかし常に——ずっと——そこにある。脈打つたびに、微かに痛む。心臓が一回打つたびに、紋章が一回痛む。


 これが「犠牲」の意味なのだと、身体が理解した。


 言葉ではなく、痛みで。


「……これが、ずっと続くのですか」


 掠れた声で問うた。祭壇の上から、司祭たちを見上げた。答えてくれる人を探した。誰か一人でも、「大丈夫、すぐ治る」と言ってくれる人を。


 司祭たちは答えなかった。目を合わせなかった。大司教だけが、遠くの高台から見つめていた。冷たい目で。実験の結果を確認するような目で。


 答えなくても、わかった。


 続くのだ。ずっと。死ぬまで。


 ——回想が途切れた。


 リーリエは自分の手を見つめていた。魔王城の自室。窓から差す光が、手の甲を温めている。


 教会の奥の間は暗く冷たかった。祈りの間は煙と蝋燭の匂いがした。あの場所に光はなかった。温もりもなかった。


 今いる場所には——光がある。


 窓の外から、リュカの声が聞こえた。庭で何かをしているらしい。陽気な声が風に乗って届く。「旦那様ー、薪が足りないっすー」「うるさい。自分で割れ」。カインの低い声。


 日常の音。教会にはなかった音だ。


 左胸の紋章が淡く光っている。あの日から変わらない光。変わらない痛み。


 けれど——今いる場所の光は、教会のそれとは違う。


 温かい。


 それだけは——確かだった。


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