聖女に選ばれた日
あの日のことを、覚えている。
忘れられるはずがなかった。自分の人生が自分のものでなくなった日。世界が崩れた日。何も知らない少女が、知らない場所に連れて行かれた日。
リーリエは窓辺の椅子に座り、目を閉じていた。記憶が自然と浮かんでくる。普段は蓋をしている場所から、水が滲み出すように。カインが真実を明かそうとしている——その気配が、リーリエの中の蓋を緩めたのかもしれない。
十二歳の冬だった。
辺境の小さな村。石造りの家が数軒、麦畑の間に点在している。冬の朝は霜が降りて、麦の穂が白く光る。リーリエはその光が好きだった。朝一番に家を出て、畑の間を走り回るのが日課だった。枯れた穂を掴むと、霜が掌で溶けて冷たい水になる。それを舐めるのが楽しかった。
母が作る朝食の匂い。焼きたてのパンと、温めた牛乳の甘い香り。父が薪を割る音。規則的で力強い、安心する音。隣の家の犬が吠える声。何も特別なものはない。けれどその「何も特別でない朝」が、どれほど贅沢だったか——今ならわかる。取り返しがつかなくなってから、初めてわかる。
あの朝も、いつもと同じだった。
ただ、胸が少し熱かった。
朝食の席で、リーリエは胸を押さえた。「どうしたの」と母が聞いた。「少し熱いの」と答えた。風邪かしらと母が額に手を当てたとき——
光った。
リーリエの左胸から、白銀の光が溢れ出した。服を透かして、部屋を照らすほどの強い光。テーブルの上の食器が光に照らされて影を落とした。母が悲鳴を上げ、父が椅子を倒して立ち上がった。牛乳の入った杯が倒れ、白い液体がテーブルの上に広がった。
紋章だった。
聖女の紋章。白銀の紋様が左胸に浮かび上がり、脈打つように光を放っている。リーリエ自身は何が起きたのかわからず、ただ胸の熱さに顔をしかめていた。痛くはなかった。まだ。痛みは後から来る。
教会の使者が来たのは、その日の午後だった。
母がリーリエの胸の光を布で隠し、「誰にも言わないで」と何度も繰り返していた矢先のことだ。父が村の診療師を呼ぼうとして、母が「駄目よ」と首を振った。あの光を見られたら——二人とも、何が起きるかわかっていたのだ。
早すぎた。村は辺境で、教会の最寄りの拠点まで馬で三日はかかるはずだ。にもかかわらず——紋章が現れてから半日も経たないうちに、白い法衣を纏った使者が二人、村に現れた。黒い馬に乗って、冬の道を。
まるで、待っていたかのように。
「聖女の適性が確認されました。この子は教会にお預かりします」
使者の声は丁寧だったが、有無を言わせない力があった。決定事項を通達する声。相談ではなく、命令。
母が「待ってください」と縋った。使者の法衣の裾を掴み、「まだ十二歳です、もう少しだけ」と懇願した。父が「せめて春まで待ってくれ」と抗議した。声が震えていた。大きな背中が、あのとき初めて小さく見えた。
しかし使者は微笑むだけだった。
「世界を守る聖女です。ご家族の誇りでしょう」
誇り。
その言葉が、両親を黙らせた。「誇り」と言われれば、抗議は我が儘になる。「世界を守る」と言われれば、引き止めることは利己的になる。美しい言葉は、人の口を塞ぐ道具にもなる。
リーリエは使者に手を引かれ、家を出た。小さな荷物——着替えと、母が持たせてくれた手編みの手袋だけを持って。振り返ると、母が泣いていた。父がその肩を抱いていた。村の知り合いたちが遠巻きに見ている。誰もリーリエに声をかけなかった。手を振る者もいなかった。
聖女だから。
人間ではなく——聖女だから。触れてはならない。関わってはならない。神聖な存在に、村人が口を挟むことは許されない。
馬車に乗せられた。使者の顔を見上げると、前を向いたまま口を開かなかった。リーリエに話しかけるつもりがないのだと悟った。荷物ではないが、客でもない。運搬される何か。冬の道を何日か走った。荷物が揺れるたびに、手袋が膝から転げ落ちそうになった。それを何度も拾い上げた。母の手袋。最後の繋がり。
教会までの景色を、よく覚えていない。覚えているのは——教会の門をくぐったときの冷たさだけ。
巨大な石造りの建物。高い天井。ステンドグラスを通した光が床に色とりどりの模様を描いているが、空気は冷たかった。石と祈りと沈黙の場所。人の温もりがない。母の朝食の匂いがない。父が薪を割る音がない。
奥の間に通された。
大司教が待っていた。
高い椅子に座り、白と金の法衣を纏った老人。禿げ上がった頭と、深い皺の刻まれた顔。しかし目だけは鋭く——冷たかった。蛇の目だとリーリエは思った。十二歳の直感で、そう感じた。この人の目は、人を見る目ではない。物を見る目だ。価値を測る目だ。
「ようこそ、リーリエ。あなたは世界を守る聖女です」
大司教の声は穏やかだった。微笑んでいた。しかしその微笑みの下にあるものを、子供の直感が嗅ぎ取った。この人は自分を「人」として見ていない。何か別のもの——道具として、あるいは材料として見ている。
「崇高な使命を果たすのです。世界中の人々が、あなたに感謝するでしょう」
崇高。感謝。美しい言葉だった。十二歳のリーリエには、その意味の半分も理解できなかった。ただ——目の前の人間が怖いということだけは、はっきりとわかった。
「……はい」
リーリエは頷いた。頷くしかなかった。逆らえる空気ではなかった。十二歳の少女に、教会の頂点に立つ老人に逆らう力はない。
大司教が満足げに頷き、司祭に何か指示を出した。リーリエは別の部屋に連れて行かれ、白い聖衣を着せられた。冷たい布。サイズが合っていない。袖が余り、裾を引きずった。
鏡に映る自分は——別人のようだった。
リーリエではなく、聖女。
手袋は、部屋の隅に置いた。教会は暖かいから要らない、と司祭に言われた。母の手袋は、それきり行方がわからなくなった。
——目を開けた。
魔王城の自室。窓から冬の光が差し込んでいる。石の壁は教会のそれとは違う。同じ石造りでも、ここには温もりがある。壁にかけられた布は、マリカが選んでくれた暖色のもの。窓辺には、リュカが「殺風景すぎるっす」と持ってきた小さな花瓶。
あの日から、私の人生は私のものではなくなった。
けれど——今いる場所の光は、教会のそれとは違う。
淡々と、リーリエは過去を振り返った。感情はない。怒りも悲しみもない。ただ事実を確認しただけだ。
——はずだった。
けれど胸の奥の、凍った場所の更に奥に——何か熱いものが、微かに蠢いた気がした。氷の下で、何かが動いている。
怒り、かもしれない。それとも——悲しみの残り火かもしれない。




