燃料
答えは、最も古い巻物の中にあった。
五百年以上前の羊皮紙。端は崩れ、文字は掠れ、人間の学者であれば判読不能と判断するだろう。しかしカインの目には読めた。この巻物を書いた人間の筆癖すら、覚えている。五百年前の教会の書記官——名前はもう忘れた。しかし文字の癖は忘れていない。右に流れる筆致。語尾を長く引く習慣。几帳面な人物だったのだろう。
「ヴェルナー。ここだ」
カインが巻物の一箇所を指し示した。蝋燭の灯りを近づける。ヴェルナーが身を乗り出し、眼鏡の位置を直して古代語を読み上げた。
「聖なる炉——聖女の命を以て稼働し、結界を維持す。炉の火は聖女の命そのものなり。命尽きれば炉は消え、結界は崩れ、世界は災厄に晒さるべし」
沈黙が落ちた。
蝋燭の炎だけが揺れている。書庫の空気が重い。ヴェルナーが眼鏡を外し、布で拭いた。手が僅かに震えていたかもしれない。冷静な参謀が動揺を見せるのは、数十年の付き合いの中でも数えるほどしかない。カインはそれを見なかったふりをした。
「やはり——そうか」
カインの声は静かだった。驚きはなかった。薄々知っていた。五百年前から。初代聖女が炉の前に立ったとき、何が起きたのかを——自分の目で見ていたから。
しかし文献で確認されたことで、否定の余地がなくなった。仮説が事実になった。
聖女の命が、結界の燃料。
言葉の一つ一つが、鋭い氷の破片のようにカインの内側に刺さった。知っていた。五百年前から知っていた。しかし古代語で書かれた事実として目の前に突きつけられると、逃げ場がなくなる。
聖なる炉は聖女の命で動き、結界を維持している。聖女が死ねば炉は消え、結界は崩壊し、世界は災厄に呑まれる。歴代の聖女たちは皆、この仕組みの中で命を消耗させ、やがて炉に呑まれていった。教会はそれを「崇高な犠牲」と呼び、少女たちの死を美しい言葉で覆い隠してきた。
つまり、リーリエの命は——今この瞬間も、世界を支えるために消費され続けている。
カインは拳を握りしめた。革の手袋の下で、左手の紋章の痕跡が疼く。古い傷が、古い記憶に呼応して熱を帯びる。
脳裏に映像が走った。断片的な。五百年前の記憶。呼んでもいないのに、勝手に蘇る。
炎。巨大な青白い炎。書庫の蝋燭とは比べものにならない、世界を呑み込むほどの炎。
消えていく手。白くて細い手が、炎の向こうで透けていく。あの手は温かかった。握ると、いつも温かかった。それが——透けて消えていく。
掴もうとした。走った。叫んだ。声が枯れるまで名前を呼んだ。しかし——掴めなかった。指の間から零れ落ちる光。声。「ごめんなさい」と囁いた声。カインの名を呼ぶ——最後の声。その声がまだ耳の奥に残っている。五百年経っても消えない。夜中にふと目が覚めるとき、あの声が耳元で囁いている。
炎が。すべてを。奪った。
「——カイン様」
ヴェルナーの声で現実に引き戻された。
書庫だ。ここは書庫で、五百年前ではない。巻物と蝋燭と埃の匂いがある。カインは額の汗を拭い、呼吸を整えた。心臓が速い。トラウマの発作が、不意に襲ってくる。五百年経っても変わらない。
「……すまない」
「いいえ。——リーリエ様に、お伝えになりますか」
ヴェルナーの問いは静かだった。感情を排した、事実の確認。彼なりの配慮だろう。動揺した主人に、次の行動を考えさせるための冷静な問いかけ。
カインは巻物を見つめた。聖女の命を以て稼働し——この言葉を、リーリエに伝えなければならない。お前の命は燃料だと。お前は今も燃やされている最中だと。教会はそれを知りながら、歴代の聖女を炉に送り続けてきたのだと。
告げることの残酷さ。リーリエの穏やかな日常に、またひとつ影を落とすことになる。せっかく朝の茶を受け取ってくれるようになった。せっかくリュカの軽口に口元を緩めるようになった。その小さな変化を、自分の言葉が踏み潰すかもしれない。
しかし隠し続けることの不誠実さ。
五百年前、カインは初代聖女に真実を伝えられなかった。気づいたときには遅かった。彼女は自ら炉の前に立ち、「もう知っているの」と微笑んだ。あの微笑みは穏やかだった。許しを含んだ、温かい微笑み。しかしそれが——五百年経った今も、カインの胸を灼いている。優しい微笑みほど深く刺さるものはない。知っていたのなら言ってほしかった。言ってくれれば止められたかもしれない。いや——止められなかったかもしれない。それでも、黙ったまま死なれるよりは。
同じ過ちは繰り返さない。
「……あいつには知る権利がある」
声には躊躇いが混じった。カイン自身にもわかっていた。怖いのだ。リーリエの表情が変わることが。あの淡々とした穏やかさの下にある凍結した感情を、この言葉が砕いてしまうことが。
しかし——
「先延ばしにするほど辛くなります」
ヴェルナーが冷静に言った。
「リーリエ様は聡い方です。いずれご自身で気づきます。そのとき、隠されていたことを知れば——信頼を損ないます。今のお二人の間にある信頼は、とても脆い段階です」
「わかっている」
「であれば」
カインは巻物を丁寧に巻き直し、棚に戻した。五百年分の埃が舞い上がり、蝋燭の光の中で金色に光った。世界で最も残酷な真実が記された巻物が、静かに棚に収まる。
「明日、話す」
「賢明かと」
ヴェルナーが一礼し、書庫を出ていった。
一人になった書庫で、カインは椅子に深く座った。目を閉じる。蝋燭の熱が顔に当たる。巻物の埃の匂いが鼻につく。五百年間、何度もこうして一人で座ってきた。暗い部屋で、蝋燭の炎だけを見つめて。
明日、リーリエに告げる。お前は人柱だと。お前の命は燃料だと。教会はそれを知った上で、お前を利用してきたのだと。
リーリエは、どんな顔をするだろうか。
泣くだろうか。怒るだろうか。それとも——「知っていました」と、あの淡い声で言うだろうか。
どの可能性も、カインの胸を締めつけた。
いっそ永遠に黙っていられれば楽だろう。しかしそれは——初代聖女に対してやったことと同じだ。知らないまま死なせること。黙って見送ること。そんな過ちを二度と繰り返すつもりはない。
蝋燭が一本、燃え尽きた。書庫が少し暗くなる。残った炎が、巻物の背表紙を照らしている。
五百年前。初代聖女を救えなかった。
今度は——今度こそ。
カインは目を開けた。暗い書庫の中で、深紅の瞳が揺れる蝋燭の炎を映していた。
左手の手袋を外した。掌に刻まれた古い紋章の痕跡が、蝋燭の光に照らされて白く浮かぶ。五百年前の誓いの証。薄くなっているが、消えてはいない。
明日が来る。




