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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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命の残り火

 三日目の調査で、カインは確信に至った。


 書庫の作業台にリーリエの身体データを書き記した羊皮紙が広げてある。ヴェルナーが取ったデータだ。生命力の数値、魔力の流れ、結界との繋がりの強度——すべてが数字と図で記されている。几帳面なヴェルナーの筆跡が、冷徹なデータを淡々と並べている。


 その数字が、異常だった。


「通常の十七歳の人間の生命力を百とした場合、リーリエ様の数値は——四十二です」


 ヴェルナーが淡々と報告した。しかし羽根ペンを置く手が、普段より強かった。インク壺が微かに揺れた。銀縁の眼鏡の奥の目に、珍しく動揺の影が差している。


「四十二。半分以下だ。この数値は——」


「一般的には、老衰寸前の人間に相当します。八十歳、九十歳の人間が、この水準です」


 カインは黙って数字を見つめた。四十二。十七歳の少女が、老衰寸前。


 ありえない。自然な老化ではこうはならない。何かが、リーリエの命を——吸っている。毎秒、毎分、止まることなく。


「減耗速度も測定しました」


 ヴェルナーが別の羊皮紙を広げた。


「一日あたり約〇・三の減少。これは……」


「何年だ」


「このペースが続くと仮定した場合——あと三年から四年で、数値がゼロに達します」


 三年から四年。


 リーリエの残り時間。知りたくなかった数字。しかし知らなければならなかった数字。


 カインは窓のない書庫の壁を見つめた。壁の向こうに、あの少女がいる。毎日茶を飲み、「不味くはない」と言い、指先の発光を手で隠し、「いつものことです」と笑う少女が。その身体が、時計のように命を刻んでいる。


「精密測定をする」


「先程よりも深い階層までですか」


「ああ。結界との繋がりを直接見る。接続点の構造を把握しなければ、対策が打てない」


 リーリエを書庫に呼んだ。リーリエは特に嫌がりもせず、言われるままに椅子に座った。窓のない書庫は薄暗く、蝋燭の光がリーリエの銀灰色の髪を金色に染めている。


「手を」


 カインが手を差し出した。リーリエが小さな手を乗せる。冷たい。いつも冷たいが、今日は特に——指先が氷のようだった。血の気がない白さ。


 魔力を通す。今度は深く。リーリエの身体の表層だけでなく、その奥にある結界との接続点——聖女の紋章を中枢とする複雑な魔力の経路を辿る。


 見えた。


 息を呑んだ。


 リーリエの身体の中を、細い光の糸のようなものが貫いている。聖女の紋章から始まり、全身に枝分かれし、その先端は身体の外へ——世界の結界(ヴェール)へと繋がっている。無数の糸が、リーリエの全身から結界へ向かって伸びている。蜘蛛の巣のように。


 そしてその糸が、絶え間なくリーリエの生命力を吸い上げていた。


 一秒ごとに。休むことなく。リーリエの命が、結界の維持に消費されている。糸の一本一本が、ゆっくりとリーリエの生命力を吸い取り、結界に送り込んでいる。


「……これが日常なのか」


 カインの声が低く震えた。自分でも気づかなかった。


 リーリエが首を傾げた。


「何かわかりましたか」


「結界との繋がりが、お前の命を食い続けている。一秒も休まず。お前が覚醒してから——ずっとだ。二年間、一度も止まることなく」


 リーリエの表情は変わらなかった。驚きもなければ、恐れもない。


「痛みには慣れました」


 淡々と。まるで天気の報告のように。窓のない書庫に、その声だけが静かに落ちた。「今日は曇りです」と言うのと同じ調子で。


 カインの胸に、黒い感情が渦巻いた。慣れた。痛みに、慣れた。十五歳で覚醒してから二年間、一秒も途切れない苦痛に晒され続けて——慣れた、と。慣れるべきではないものに慣れてしまうこと。それがどれほど残酷なことか、リーリエ自身はもう感じられなくなっている。


 その瞬間だった。


 リーリエの指先が光った。


 白銀の光が指先から溢れ、同時にリーリエが「——っ」と息を詰めた。右手で胸を押さえ、身体が前に傾く。椅子から崩れ落ちそうになる。


 カインの反応は考えるより先だった。


 椅子が鳴った。作業台に置いた巻物が端から落ちた。そんなことは気にもならなかった。


 左手がリーリエの肩を支え、右手がリーリエの背中に回る。倒れる前に——倒れる前に捕まえた。リーリエの軽い身体が腕の中にある。軽すぎる。十七歳の少女の重さではない。骨と皮だけの、壊れそうな軽さ。背中に回した手の下で、肩甲骨の形がはっきりとわかる。薄い。あまりに薄い。


「また、ですか」


 リーリエの声は平静だった。苦痛に顔を歪めながらも、声だけは淡々としている。カインの胸に頭を預ける形になっていることに、リーリエ自身は気づいていないのかもしれない。


「痛いのか」


「少し。いつものことです」


 いつものこと。


 カインはリーリエを支えたまま、ヴェルナーに目を向けた。ヴェルナーが無言で頷く。今の発光と痛み——結界がリーリエの生命力を大きく吸い上げた瞬間の反応だ。結界の維持に負荷がかかるたびに、聖女の身体から生命力が搾り取られる。日常的に起きている。リーリエはそれを「いつものこと」と呼ぶ。


「カインさん。もう大丈夫ですので」


 リーリエがカインの胸から顔を上げた。薄い青紫の瞳は虚ろではなかったが、疲労の色が濃い。唇に血の気がない。額に薄く汗が浮いている。蝋燭の光の下で、その顔はひどく白く見えた。


 カインはゆっくりと手を離した。離すのが——遅れた。一瞬だけ。自分でも気づかないほどの一瞬。リーリエが椅子に座り直す。何事もなかったかのように。髪を直し、裾を整え、姿勢を正す。


 何事もなかったかのように——それが、どれほど異常なことか。


 リーリエが部屋を出た後、カインとヴェルナーは書庫に残った。


「仮説の確度は」


「九割以上です」


 ヴェルナーが眼鏡を押し上げた。


「結界は聖女の生命力を恒常的に吸い続けています。文献の記述と、リーリエ様の身体データが一致します。聖女の命が——結界の燃料です」


 燃料。その言葉の冷たさが、書庫の空気に沈んだ。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁の上で重なり合った。


 カインは巻物に目を落とした。古代語で書かれた文字が、蝋燭の炎に照らされて揺れている。


 結界の燃料。聖女の命が。


 五百年前、初代聖女もそうだった。命を——。


 記憶が脳裏をよぎりかけたが、カインは頭を振ってそれを追い払った。今は過去に沈んでいる場合ではない。


「文献の核心部分を探す。まだ、もっと詳しい記述があるはずだ」


「承知しました」


 蝋燭が揺れる。書庫の奥で、古い巻物が主人を待っている。


 あの少女が「いつものことです」と微笑む姿が、脳裏から消えなかった。あの穏やかさの下に、どれほどの痛みが積もっているのか。想像するだけで胸が軋む。


 カインの拳は——まだ、開かれていなかった。


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