知らない声
夢を見た。
見知らぬ場所だった。石の壁に囲まれた円形の空間。壁面には古い文様が刻まれ、苔と煤で半ば覆われている。天井は遥か高く、闇に消えている。どこまでも続く暗闇の中に、一つだけ光があった。空間の中央に——炎があった。
巨大な炎。青白い色をした、普通の火ではない炎が、空間全体を照らしている。松明の炎とも暖炉の火とも違う。もっと深い色。もっと冷たい光。しかしそれでいて——凄まじい熱を発している。
熱い。
炎の熱さが肌を焼くようだった。しかし本当に熱いのは肌ではなく、胸の奥——聖女の紋章がある場所だった。紋章が脈打つように熱を帯び、炎と共鳴している。まるで紋章が炎に呼ばれているかのように。
炎の向こうに、人影があった。
女性だった。長い髪が炎の光を受けて揺れている。背中をこちらに向けて立っている。何かを抱えているような、あるいは何かから目を離せないような佇まいだった。華奢な肩。白い衣——リーリエが教会で着せられていた聖衣に似ている。
声が聞こえた。
「——いて——」
聞き取れない。炎の轟音に掻き消されて、言葉が途切れる。しかし声の質はわかった。若い女性の声。切迫した声。何かを必死に伝えようとしている声。
「——を——聞い——」
何かを伝えようとしている。必死に。しかし声は届かない。炎が二人の間を隔てている。リーリエが一歩踏み出そうとすると、炎が激しく揺れて行く手を阻んだ。
「誰ですか」
リーリエは問いかけた。声を張ったつもりだったが、自分の声すら炎に呑まれて消えた。まるでこの空間全体が、声を吸い込んでいるかのように。
女性が振り向きかけた。髪が揺れ、横顔の輪郭が——
目が覚めた。
天井があった。魔王城の自室の天井。石造りの、見慣れた灰色。朝の光が薄いカーテン越しに差し込んで、部屋を白く照らしている。鳥の鳴き声が窓の外から聞こえる。現実の音だ。
「……誰」
呟いた。額に汗が滲んでいた。心臓が早い。寝間着の背中が汗で湿っている。夢——夢のはずだ。しかし夢にしてはあまりに鮮明で、炎の熱さが胸の奥にまだ残っている。触れれば火傷しそうなほどに。
左胸に手を当てた。聖女の紋章が微かに熱を帯びている。夢の中と同じ場所が。普段は冷たいか無感覚なのに、今は脈打つように温かい。
何だったのだろう。
知らない場所。知らない女性。聞き取れない声。しかし「伝えようとしていた」ことだけは確かだった。あの声には、切迫した何かがあった。助けを求めているのか、警告をしているのか、それとも——何かを託そうとしているのか。
起き上がり、寝間着の襟元を直す。鏡に映る自分の顔は——いつもより少し白い。目の下に薄い翳りがある。寝汗で髪が首筋に貼りついていた。見苦しい顔だ。カインに見せたくない顔。
カインには話すまい。
夢の話などしたところで、何になるだろう。カインは今、文献の解読に集中している。リーリエの身体の真実を追っている。余計な心配をかける必要はない。ただの夢だ。たぶん。きっと。——そう思い込むことにした。
身支度を整え、食堂に向かった。
朝の茶の時間。
カインが先に座っていた。その顔を見て、リーリエはすぐに察した。寝ていない。目の下の隈は隠しようもなく、いつもは無造作ながらも整えられている黒髪が乱れている。書庫で徹夜したのだろう。深紅の瞳の光が少し鈍い。
「おはようございます」
「ああ」
短い返事。カインの声はいつもより低く、疲労が滲んでいた。しかしリーリエが席に着くと、カインの視線がすっと動いた。リーリエの顔を見る。数秒——確認するような視線。上から下へ。顔色を確認している。
「眠れなかったのか」
気づかれた。この人はいつもそうだ。自分は徹夜していても、リーリエの顔色の変化は見逃さない。
「少し夢を見ただけです」
「どんな夢だ」
「覚えていません」
嘘をついた。覚えている。炎の中の声を、はっきりと覚えている。振り向きかけた女性の輪郭も。しかし今は——今は言わなくていい。カインの顔に疲労の色が濃い。これ以上荷物を載せるべきではない。
カインは追及しなかった。リーリエが話したくないことを無理に聞くのは、この人の流儀ではない。代わりに、自分の茶杯をリーリエの前に押しやった。
「……これは、あなたの分では」
「お前の分より甘くしてある。砂糖を三杯入れた」
「三杯。それはもはや砂糖水です」
「甘いものは体にいい。特に疲れているときは」
「あなたのほうが余程疲れているでしょうに」
カインは答えず、リュカに自分の分を追加で頼んだ。リュカが「旦那様、お嬢に甘すぎっすよ。砂糖の在庫が心配になってきたんすけど」と笑いながら厨房に戻っていく。
リーリエはカインの茶杯を手に取った。口をつける。甘い。甘すぎる。砂糖三杯の茶は正直、茶というより薬湯に近い甘さだった。舌がひりつく。
しかし——温かかった。
カインが自分の茶を差し出す。顔色が悪いことに気づいて、甘い茶を。言葉ではなく行動で示す不器用な心配。もう何度もこの光景を見てきた。見るたびに、少しだけ胸の奥が柔らかくなる。凍った場所の、ほんの表面だけが——薄く溶ける。
「ありがとうございます」
「礼を言うようなものじゃない」
「そういうところです」
「何がだ」
リーリエは答えず、茶を啜った。甘い。けれど不味くはない。
朝食を終え、カインは再び書庫に向かった。ヴェルナーが待っているらしい。リュカが「お嬢、今日は何するっすか」と聞いてきたが、リーリエは「少し部屋にいます」とだけ答えた。
自室に戻る。窓辺の椅子に座る。
夢のことを考えていた。
炎の中の声。あの女性は誰だったのだろう。振り向きかけた横顔は——見覚えがない。リーリエの知り合いにはいない顔だ。教会にいた頃の知人でもない。
けれど「知らない」と言い切れない何かがあった。まるで、もっと深い場所で繋がっているような——血よりも深い、魂のような場所で。
左胸の紋章に手を当てた。微かに、まだ温かい。普段は冷たいか、あるいは何も感じないのに。夢を見た後は、紋章が温もりを持つ。共鳴している。あの炎と。あの声と。
何かが繋がっている。自分の中の何かと、あの炎の中の声が。
しかし正体はわからない。わからないことが——少し、気になった。
気になる。
それは——リーリエにとって、珍しい感覚だった。教会にいた頃、何かを「知りたい」と思ったことはなかった。与えられた役割を果たすだけの日々に、好奇心は不要だった。不要というより——好奇心を持つ余裕がなかった。痛みに耐えるだけで精一杯の日々に、疑問を抱く力は残っていなかった。
今は、ある。
この城で過ごす日々が、少しだけ余白をくれた。その余白の中に、「知りたい」という小さな芽が顔を出している。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。冬の空は高く、澄んでいる。
炎の中の声が、耳の奥に残っている。




