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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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古い文献

 書庫の最奥は、埃と沈黙の領域だった。


 カインが保管してきた古代の文献は、魔王城の地下書庫の更に奥——錠前が三つかかった鉄扉の向こうに収められている。扉を開けた瞬間、数百年分の埃が舞い上がり、蝋燭の光の中で金色に光った。棚には巻物や革装の書物がぎっしりと並んでいる。初代聖女の時代に近い資料もある。人間の歴史では失われたはずの記録が、ここには残っている。


 五百年という時間は、人間にとっては途方もない。しかしカインにとっては——歩いてきた道の長さだ。その間に集めた文献の量だけは、教会をも凌ぐ。世界中を放浪し、古い図書館の廃墟を漁り、闇市場で競り落とし、時には教会の保管庫から直接持ち出した。すべて、聖女を救う方法を見つけるために。


「これを全て、ですか」


 ヴェルナーが書庫を見渡し、眼鏡の奥の目を僅かに見開いた。銀縁の眼鏡が薄暗い書庫の蝋燭の光を拾い、冷静な目元を照らしている。普段は感情を見せない参謀が、わずかに圧倒された表情を見せた。


「全てじゃない。必要なのは結界に関する記述だけだ。この棚から五つ」


 カインが指差した棚には、とりわけ古い巻物が並んでいた。羊皮紙は黄ばみ、端は崩れかけている。だが魔力で保護されているため、文字はまだ読める。五百年の時に耐えたのは、保存の魔法のおかげだ。その魔法をかけたのもカインだった。いつか必要になると信じて。


「古代語ですね。解読に時間がかかります」


「時間はない」


 カインの声に、普段は見せない切迫感が混じった。ヴェルナーはそれ以上問わなかった。数十年仕える主人の焦りを、言葉の端から正確に察したのだろう。静かに棚から巻物を取り出し、作業台に広げ始めた。


 解読作業が始まった。作業台の上に蝋燭を三本並べ、巻物を広げる。羊皮紙の乾いた匂いが鼻をつく。時が止まったような空間の中で、二人だけが動いていた。


 ヴェルナーの古代語の読解力は確かだ。数十年カインに仕える中で叩き込まれた知識は、並の学者を遥かに超えている。巻物の文字を一行ずつ丁寧に追い、現代語に変換していく。時おり眼鏡を外して目頭を押さえるのは、古代語特有の細かい字画に目が疲れるからだろう。


「聖女の力が結界を支える……聖女なくして結界なし……ここは欠損していますが、文脈から『聖女の存在が結界維持の必要条件』と読めます」


 断片的な記述が読み上げられた。カインは腕を組み、目を閉じて聞いている。


「力、ではない」


 カインが呟いた。


「力ではなく——命だ」


 ヴェルナーの手が止まった。


「根拠は」


「勘だ。——いや、五百年の勘だ。この文献の書き方には癖がある。都合の悪い真実を婉曲に書く癖だ。教会の記録はいつもそうだ。『力』と書いてあるが、意味しているのは『命』だ。聖女の『力』が結界を支えるのではなく、聖女の『命そのもの』が燃料になっている」


 ヴェルナーは眼鏡を押し上げた。冷静な目の奥に、微かな動揺が走ったのをカインは見逃さなかった。長年仕えた主が五百年分の確信を持って語る言葉は、ヴェルナーにとっても無視できない重さがある。


「確証は」


「それを探している」


 更に巻物を広げる。古代語の行列が続く。結界の構造、聖女の役割、世界の成り立ち——断片的な記述が少しずつ像を結んでいく。パズルのピースが、嫌な形に嵌まり始めている。


 数時間が過ぎた。


 書庫に光は届かない。蝋燭の炎だけが二人の手元を照らし、巻物の上に揺れる影を落としている。カインもヴェルナーも口数は少なく、紙を繰る音と羽根ペンが走る音だけが響いた。時おりヴェルナーが「この箇所は……」と呟き、カインが身を乗り出して確認する。二人の呼吸は、数十年の付き合いで自然に合っていた。


 扉が叩かれた。


「失礼します」


 リーリエだった。盆を両手に持ち、書庫の入口に立っている。盆の上には茶の入った杯が二つと、リュカが焼いた素朴な菓子が乗っていた。銀灰色の髪が書庫の薄暗い光の中で鈍く光っている。


「リュカが、差し入れにと」


「わざわざ来なくてもいい。リュカに持ってこさせればいい」


「リュカは厨房で忙しそうでしたので。それに——少し、気になって」


 最後の一言は、ごく小さかった。気になって。カインが何時間も書庫に籠もっていることが、リーリエは気になっていたのだ。


 リーリエが書庫の中に入ってくる。埃っぽい空気に少し眉をひそめたが、文句は言わなかった。盆を作業台の空いた場所に置く。指先は冷たいままだろうが、湯気の立つ茶を丁寧に置く仕草は——穏やかだった。


 カインの手元の巻物に、リーリエの視線が向いた。


「古代語ですか」


「ああ」


「……そこまで深刻なのですか」


 リーリエの声が静かだった。カインの表情を見ている。数百年分の文献を引っ張り出し、徹夜で解読している——そのことが何を意味するか、リーリエは正確に理解していた。この人がここまで必死になるのは、結果がそれだけ深刻だからだ。


「まだわからない」


 嘘ではなかった。確証はまだない。しかし仮説の輪郭は、もうほとんど見えている。


「私の身体のことでしょう」


「ああ」


「覚悟はできています。どんな結果であっても」


 淡々としていた。まるで天気の話でもするように。命に関わるかもしれない検査の結果を、「覚悟はできています」と——穏やかに。


 カインの中で何かが軋んだ。


「覚悟などいらない」


 声が硬くなった。自分でも驚くほどに。


「覚悟の必要がないように、俺が調べている。お前は覚悟など持たなくていい。覚悟が必要な結果には、させない」


 リーリエが少し目を見開いた。それからふっと視線を落とし、小さく頷いた。


「……そうですか」


 その声は——少しだけ、温度があった。教会では誰も「覚悟は要らない」とは言ってくれなかった。「崇高な覚悟を持ちなさい」と言われ続けた。覚悟しろ、耐えろ、犠牲を受け入れろ。そんな言葉ばかりだった。


 リーリエが書庫を出ていく。足音が廊下に消えた後、ヴェルナーが茶を一口啜り、静かに言った。


「聖女様は聡い方です。遠からず、ご自身で答えに辿り着くかもしれません」


「わかっている」


「であれば——先に伝えるべきかと」


 カインは答えなかった。茶を手に取り、一口飲んだ。甘い。リュカが砂糖を多めに入れたのだろう。いつもそうだ。カインが疲れているときは、リュカの茶は甘くなる。五十年仕えた従者は、主人の疲労を茶の甘さで測っている。


 文献に目を戻す。巻物の古代語が蝋燭の光に照らされて揺れている。


 聖女の「力」ではなく「命」——この仮説を裏付ける記述を、今夜中に見つけなければならない。


 蝋燭の炎が揺れた。五百年前にも、こうして文献を読んでいた。あのときは——間に合わなかった。


 今度は、間に合わせる。


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