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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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調べさせろ

 朝の報告を受けたとき、カインは既に予感していた。


 教会の使者が残した言葉が、数日経った今も耳の奥に刺さっている。「聖女をお返しいただけない場合、然るべき対応を取らせていただきます」——あの慇懃な声に滲んだ脅迫。使者の去り際に見せた冷たい笑みは、五百年前の教会の高位司祭たちと同じ類のものだった。組織の歯車として動く人間特有の、感情を持たない笑み。


 あの程度は予想の範囲内だった。教会が動くのは時間の問題だった。問題は——教会ではない。


 むしろ、予想を超えていたのはリーリエの身体のほうだ。


 最近、明らかに悪化している。


 眩暈の頻度が増えた。食事中に箸を落とすことが二度あった。指先の発光が不意に起きるようになり、その度にリーリエは「あ」と小さく声を漏らして手を隠す。食事の量はもともと少なかったが、更に減った。リュカが腕によりをかけた鶏肉の煮込みでさえ、三口ほどで箸を置く。リュカが「お嬢、もうちょい食えないっすか」と困った顔をしているのを、カインは黙って見ていた。


 そして——夜中の咳。


 カインの聴覚は常人を遥かに超える。聞こえてしまう。リーリエの部屋から漏れる小さな咳き込みの音。ベッドの上で身を起こし、胸を押さえている姿が、音だけで想像できた。走っていって扉を開けたい衝動を抑え、廊下で立ち止まる夜が続いている。聞かないふりをすることは、もうできなかった。


 もう後回しにはできない。


 初代のときと同じ轍を踏むつもりはない。あのときは遅かった。気づいたときには手遅れで、掴もうとした手は——すり抜けた。


 カインは記憶を振り払い、書斎の椅子から立ち上がった。革張りの肘掛けに爪の痕が残っている。いつからだろう。無意識に力を込めていたらしい。窓の外は冬晴れで、痛いほど青い空が広がっている。遠くの山脈が雪を被り、朝の光を反射して眩しく輝いている。こんな穏やかな日に、こんな話をしなければならない。


 リーリエの部屋は廊下を二つ曲がった先にある。歩き慣れた道。最初の頃は「聖女の部屋に見張りをつけるべきでは」とヴェルナーが進言したが、カインは却下した。監視は教会がやることだ。この城では——リーリエは自由だ。


 扉の前に立つ。叩く前に、一瞬だけ迷った。この先に踏み込めば、リーリエの日常にまた影を落とすことになる。せっかく朝の茶を「不味くはない」と言えるようになったのに。せっかくリュカの軽口に微かに口元を緩めるようになったのに。せっかく星の名前を覚えてくれたのに。


 しかし、迷いは一瞬で消えた。


 守るためには、知らなければならない。目を背けて守れるものなど、何もない。


 拳を上げた。一瞬だけ、握ったまま止まる。木目の浮いた古い扉。この扉を叩くのは何度目だろう。毎回、同じ緊張がある。リーリエの声を聞くまでの、ほんの一瞬の間。


 叩いた。


「リーリエ」


「はい」


 返事はすぐに来た。扉を開けると、リーリエは窓辺の椅子に座っていた。銀灰色の髪が冬の朝の光を受けて柔らかく光っている。膝の上に開いた本を置いていたが、ページの位置は昨日と同じだった。読んでいなかったのだろう。視線はぼんやりと窓の外に向いていた。薄い青紫の瞳は焦点が遠く、物思いに沈んでいた表情が、カインの訪問で僅かに現実に戻った。


「お前の身体を調べさせろ」


 前置きなしに言った。遠回しにしても仕方がない。


 リーリエは振り向かなかった。窓の外を見たまま、淡い声で返した。


「好きにしてください」


 予想通りの返答だった。予想通りすぎて、胸の奥が軋む。


「嫌なら断れ。無理にとは言わない」


「嫌も好きもありません。私の身体のことでしょう。あなたが調べたいなら、どうぞ」


 窓の外を見るリーリエの横顔に、感情の揺れは見えなかった。自分の身体のことだというのに、まるで他人の話を聞いているような態度。命が自分のものではないかのように。


 カインは唇を引き結んだ。苛立ちではない。これは——悲しみだ。長い苦痛が生んだ合理的な防衛反応であることを、カインは知っている。だから責められない。責めるべきは、リーリエをこうさせた仕組みのほうだ。


「座っていろ。魔力を通す」


 リーリエの前に跪き、右手を差し出した。リーリエが本を膝から降ろし、小さな手をカインの掌に乗せる。華奢な指。冷たい。この手がいつも冷たいことを、カインはもう知っていた。冬だから冷たいのではない。夏でも——この手は冷たかった。まるで命の熱が、別の場所に吸い取られているかのように。


 魔力を通す。リーリエの身体の状態を魔力で探る——古い技法だが、カインの数百年の蓄積があれば精度は高い。魔力がリーリエの全身を巡り、情報を返してくる。


 ——なんだ、これは。


 表情を変えないように努めた。しかし指先に力が入ったのを、リーリエは感じ取ったかもしれない。


 生命力の数値が異常に低い。十七歳の若い身体にありえない減耗。まるで百年を生きた老木のように、内側から枯れかけている。血管を流れる生命力は本来もっと力強いはずだ。それが細く弱く、途切れそうなほどに——痩せ細っている。


 そして結界との繋がり。リーリエの身体と世界の結界(ヴェール)を結ぶ細い糸のようなものが、聖女の紋章を起点にリーリエの全身を貫いている。その糸が、絶え間なくリーリエの生命力を吸い上げていた。一秒ごとに。休みなく。眠っている間も、食事をしている間も、星を見ている間も。


「……そんな顔をされると、余計に不安になりますが」


 リーリエの声で我に返った。顔を上げると、リーリエが薄い青紫の瞳でこちらを見ていた。


 微かに——ほんの微かに——口元が緩んでいた。場を和ませようとしている。以前のリーリエなら、こんな軽口は叩かなかった。魔王城の日々が、リーリエに小さな変化を与えている。その変化を壊したくないと思う自分がいることに、カインは気づいていた。


「不安にさせたいわけじゃない」


「知っています。あなたはいつも、怖い顔で優しいことをしますね」


 返す言葉が見つからなかった。


 カインは手を離し、立ち上がった。リーリエの手が膝の上に戻る。冷たい手。あの冷たさの理由が、今は——おぞましい仮説として、カインの中に形を取り始めていた。


 結界が、リーリエの命を食い続けている。


「明日、書庫で文献を調べる。ヴェルナーにも手伝わせる。お前は——」


「待っています。いつも通り」


 リーリエが窓の外に視線を戻した。穏やかな横顔。笑顔ではないが、苦痛の色もない。教会にいた頃から変わらない、何も感じていないような表情。しかしカインはもう知っている。あの穏やかさの下に、凍結した感情が眠っていることを。


 いつも通り。その「いつも通り」が、どれほど残酷なものの上に成り立っているのか。


 カインは部屋を出た。廊下を歩きながら、拳を握った。


 結界との繋がりが命を食う——この仮説が正しければ、リーリエの時間は想像以上に少ない。


 急がなければならない。


 五百年前と同じ過ちを、繰り返すわけにはいかない。


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