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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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嵐の前

 夜が深い。


 ヴェルナーの報告は、夕食の後にあった。カインの執務室に三人が集まっている。カイン、ヴェルナー、そしてリーリエ。


「教会が本格的な軍勢を編成しているとの噂があります」


 ヴェルナーが淡々と述べた。蝋燭の灯りが揺れ、三人の影が壁に伸びている。


「次は偵察部隊ではありません。聖騎士団の残存兵力に加え、教会直属の正規軍が動員される可能性があります。規模は聖騎士団の三倍以上——百名を超えるでしょう」


「そうか」


 カインは静かに受け止めた。動揺はなかった。予想していたのだろう。


 リーリエも同席していた。もう隠されることはない。カインが自分から「リーリエも聞け」と言った。リーリエに関わることを、リーリエ抜きで決めないという意志。


「時期は」


「早ければ一月後。遅くとも春までには。冬の間は行軍が難しいため、雪解けを待つ可能性もありますが——教会の焦りを考えると、冬場の強行軍も有り得ます」


「……一月か」


 カインが窓の外を見た。暗い空に、星が散っている。冬の星座がはっきりと見える夜だった。


「ヴェルナー。防衛策を練ってくれ。城壁の強化、退避路の確保、周辺の協力者への連絡。全て任せる」


「承知しました。明朝から取りかかります」


 ヴェルナーが一礼して去った。扉が閉まり、足音が廊下を遠ざかる。


 二人きりになった執務室は静かだった。蝋燭の芯が燃える微かな音だけが響いている。古文書が机の上に広げられたまま。インク壺の蓋が開いている。カインが報告の途中で筆を止めたのだろう。


「リーリエ」


「はい」


「……疲れただろう。寝ろ」


「あなたこそ」


「俺はいい」


「いつも、そう言いますね。三日寝なくても平気だとリュカが言っていましたが、平気と快適は違うでしょう」


 カインが苦笑した。三度目の苦笑。リーリエに向ける笑みが、少しずつ増えている。本人は気づいていないだろうけれど。


 リーリエは部屋を出た。自室には戻らなかった。


 廊下を歩き、階段を上り、城壁に近い塔の窓辺に立った。ここは風通しがよく、星がよく見える。以前、カインに星の名前を教わったのもこの場所だった。あの夜のことを、よく覚えている。


 窓を開けた。冷たい夜風が頬を撫でた。冬の匂いがする。枯れ草と霜の匂い。


 星が見える。冬の夜空は澄んでいて、星が針で刺したように鋭く瞬いている。天の川が薄い帯のように空を横切っている。


 フェアシュテルン——冬の女王座。五つの星が弧を描く星座。あの日カインが指さして、「冬の女王は孤独だが、五つの星に囲まれている。一人じゃない」と言った。


 覚えている。あの夜のことを。カインの声を。星を指す長い指の影を。


 足音が聞こえた。石段を上る、重い足音。


 カインだった。


「ここか」


「……見つかりましたか」


「お前が行きそうな場所は限られている」


「監視ですか」


「心配だ」


 素直だった。いつものカインなら「別にお前のためじゃない」と言うところだ。今夜は——素直だった。


 カインがリーリエの隣に立った。並んで、窓の外を見た。


 沈黙が流れた。けれど不快な沈黙ではなかった。二人の間を風が通り抜け、リーリエの銀灰色の髪とカインの黒い外套を揺らした。同じ風が二人に触れている。


「……あの星、見えますね」


 リーリエが空を指した。


「ああ。冬の女王だ」


「覚えています」


「そうか」


 短い言葉の往復。けれどその中に——確かな温度がある。共有した時間。共有した記憶。たかが星の名前だ。けれど二人が一緒に見上げた空の記憶は、リーリエの「持ち物」の一つになっている。何百もの教会の教えより、一つの星の名前のほうが重い。


「リーリエ」


 カインが名前を呼んだ。


 今回は——間がなかった。


 いつもの一瞬の躊躇。別の名前を飲み込むような間。舌の上で修正する気配。それが——なかった。「リーリエ」と、真っ直ぐに呼んだ。迷いなく。


 リーリエはそれに気づいた。気づいて——胸の奥が、微かに震えた。何かが溶ける音がした。氷が一枚、薄い一枚だけ剥がれて、水になった音。


「何があっても、俺はお前の傍にいる」


 カインの声は低く、静かだった。宣言ではなく、約束でもなく——ただの事実として語られた。教会が来ても。軍勢が押し寄せても。世界が敵になっても。


 傍にいる。


 リーリエは答えなかった。


 長い沈黙が流れた。風が吹き、星が瞬き、夜が深まっていく。蝋燭ではなく星の光だけに照らされた二人の横顔が、夜の中に浮かんでいる。


 答えられなかった。「ありがとう」とも「嬉しい」とも「信じます」とも。どの言葉も——リーリエの中にはまだ育っていなかった。感情はある。けれどそれを言葉にする術を、まだ知らない。凍っていた時間が長すぎて、言葉を忘れてしまった。


 けれど。


 隣にいることを——拒まなかった。


 カインが傍にいる。リーリエがそれを許している。肩が触れそうな距離で、同じ星を見ている。


 崖の上で死のうとしていた少女は、もうここにはいなかった。


 代わりにいるのは——迷っている少女だ。死にたいのか生きたいのかわからず、ここにいたいのか戻るべきかわからず、隣にいるこの人が何者なのかも完全にはわかっていない。


 けれど一つだけ、確かなことがある。


 今、この瞬間を——手放したくない。


 星が瞬いた。フェアシュテルンの五つの星が、弧を描いて空に輝いている。


 カインの隣で、リーリエは小さく呟いた。


「……ええ」


 たった一言。


 「ご勝手にどうぞ」ではなく。「どうでもいいです」でもなく。


 ええ。


 あなたが傍にいることを、受け入れます。拒みません。


 カインが何も言わなかった。ただ、隣にいた。


 星空の下で、二人は並んでいた。嵐が迫っている。教会が動いている。結界は弱まり、世界は揺れている。一月後には、この城に軍勢が押し寄せるかもしれない。


 けれど今夜は——星が綺麗だった。


 それだけで、十分だった。


 冬の女王座の五つの星が、弧を描いて光っている。冷たい風が二人の間を通り抜け、リーリエの銀灰色の髪とカインの黒い外套を揺らした。同じ風。同じ星。同じ夜。


 崖から落ちたあの日——カインの腕に拾われたあの日から、季節が一つ過ぎようとしている。世界は変わった。リーリエの中の何かも、確かに変わった。


 まだ「生きたい」とは言えない。けれど「ここにいたい」は——もう、嘘ではなかった。


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