変わり始めた日々
朝が来る。
カインが花茶を淹れてくれる。いつもの時間に、いつもの温度で。カップを受け取ると、仄かな花の香りが鼻先を擽った。白い蒸気が細く立ち上り、朝の光に溶けていく。
「ありがとうございます」
「ああ」
短い言葉の交換。カインが窓の外を確認する。一度、二度。以前は一度だった。最近は二度になった。三回目はまだないが、そう遠くないかもしれない。
マリカが朝食を運んでくる。今日は温かいスープと焼きたてのパン、それから果実の砂糖漬け。
「リーリエ様、今日は少し寒くなりそうですので、スープを濃いめにしました」
「ありがとうございます。美味しそうですね」
マリカが微笑んだ。いつもの笑顔——だが、少し固い。目元に疲れがある。マリカが夜中に城壁を見に行っていることを、リーリエは知っていた。見回りの従者に混じって、外の様子を確認している。心配なのだろう。自分たちの城が、いつ攻められるかわからない状況が。
「お姉ちゃん、おはよう!」
フィルが駆け込んできた。金色の目を輝かせ、リーリエの隣の椅子によじ登る。小さな角がテーブルに当たりそうになる。
「おはよう、フィル。角をぶつけないように」
「大丈夫! 今日ね、庭にちょうちょがいたの! 青いの!」
「そうですか。この季節には珍しいですね」
「つかまえていい?」
「逃がしてあげなさい」
「えー」
フィルがパンを口いっぱいに頬張る。頬が膨らんで、小さな角が嬉しそうに揺れている。リュカが「行儀悪いっすよフィル」と言いながら、自分も同じようにパンを頬張っている。
「リュカこそ行儀が悪いです」
「……すいやせん」
いつもの朝だ。
リーリエはスープを一口すくった。温かい。湯気が顔を包み、野菜と香辛料の匂いが鼻腔を満たした。スプーンの金属が唇に触れる冷たさと、スープの熱さの対比が心地よかった。マリカの言った通り、いつもより少し濃い味。寒い朝には、これくらいがちょうどいい。
食事の後、リーリエは城内を歩いた。廊下の窓が、いくつか閉められていた。以前は開け放たれていた窓が、板で塞がれている。
「風通しが悪くなりましたね」
「ああ、すみませんな」
ヴェルナーが後ろから声をかけた。
「防衛上の措置です。外部からの侵入経路を減らすために、不要な開口部を封鎖しています。また、巡回も増やしました。夜間は二交代で城壁を見回っています。旦那様のご指示で」
「……そうですか」
「鋭いですな、聖女殿は」
「気づかないほうが難しいです」
「……左様ですか。確かに」
ヴェルナーが苦笑して去っていった。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜ、橙色の火花が一つ飛んだ。リーリエは閉じられた窓に触れた。冷たいガラスの向こうに庭が見える。フィルが蝶を追いかけている。リュカが木の枝に腰かけて欠伸をしている。
平穏な光景。蝶がフィルの指先に止まり、リュカが「すげえ」と声を上げている。笑い声が窓ガラスを通してくぐもって聞こえる。
けれど額縁が変わった。窓は閉じられ、巡回が増え、城壁の結界が二重にされている。この城は——戦いの準備をしている。少しずつ、しかし確実に。
教会が次に来るとき、それは偵察でも交渉でもないだろう。
夕暮れ、リーリエは庭に出た。花壇のエーデルフラウが——一つ、萎れ始めていた。
白い花弁の縁が茶色くなり、茎が傾いでいる。他の花はまだ咲いている。けれどこの一輪だけが、先に枯れかけている。寒さのせいだろうか。それとも——
リーリエは指で花弁に触れた。柔らかい。けれどもう、あの透き通るような白さはない。
「……また咲くでしょうか」
呟いた。
それは花のことだけではなかった。
窓辺に寄ると、冬の朝の冷気が頬を撫でた。庭の花壇に霜が降りている。エーデルフラウの白い花弁が霜に縁取られ、硝子細工のように光っていた。
この日常は——また来るのか。聖騎士団が去り、使者が去り、束の間の平穏が戻った。朝の花茶、マリカの料理、フィルの笑顔、リュカの軽口、ヴェルナーの苦笑。
この日々が——いつまで続くのか。
花に答えはなかった。風が吹いて、萎れかけた花弁が一枚、リーリエの掌に落ちた。薄い。軽い。もう生きていない花弁。
リーリエはそれを握りしめた。
まだ手放したくない。
この日々を、この場所を、この人たちを——まだ手放したくない。
「手放したくない」という言葉を使う自分に、リーリエは気づいた。カインの言葉だ。カインが最初に言った言葉が、いつの間にかリーリエの言葉になっている。移ったのだ。言葉が。気持ちが。
城の中から、カインの声が聞こえた。ヴェルナーに何か指示を出している。低い声。けれど怒りではなく、冷静な判断の声だ。この城を守るために、この人は夜も眠らず考えている。
リーリエは掌の花弁を見つめた。萎れかけた白い花弁。けれどまだ完全には枯れていない。茶色い縁の内側に、白い部分が残っている。
「まだ、終わっていません」
花に向かって呟いた。花に言ったのか、自分に言ったのかは——わからなかった。風が花弁を揺らし、リーリエの銀灰色の髪も同じ方向に靡いた。空気は冷たく、吐く息が白くなり始めている。冬が近い。
掌の花弁を、そっとポケットにしまった。枯れかけた花弁。けれどまだ、白い部分が残っている。
立ち上がり、城の中に戻った。廊下でリュカとすれ違った。
「お嬢、夕飯の準備してますんで。今日は煮込みっすよ」
「ありがとうございます。楽しみです」
リュカが目を丸くした。「楽しみ」という言葉を、リーリエが使うのを聞いたのは初めてかもしれない。
「……お嬢、今『楽しみ』って言いました?」
「言いました。何か」
「いやいやいや。何でもないっす。何でもないっすけど——めちゃくちゃ嬉しいっす」
リュカが笑いながら厨房に走っていった。「よーし腕振るうぞー!」という声が廊下に響いた。
リーリエは少しだけ——ほんの少しだけ——口元が緩んだ。笑みとは言えない。けれど「無」ではなかった。頬の筋肉が微かに動き、唇の端がほんの数ミリだけ持ち上がった。フィルに「笑って」と言われて動かなかった筋肉が、今——ほんの少しだけ動いた。
嵐が近づいている。窓の外で風が唸っている。それだけは、確かだった。けれど今夜の煮込み料理は——たぶん、美味しいだろう。




