カインの答え
夜。
蝋燭の炎が書斎の壁に揺れる影を落としている。インクと蝋の匂い。古い羊皮紙の匂い。カインの書斎は、夜になると独特の気配を纏う。昼間は ただの部屋だが、夜は——五百年の時間が壁から滲み出してくるような、重い空間になる。
リーリエはカインの執務室の前に立っていた。
扉の下から灯りが漏れている。まだ起きている。カインは夜更かしだ。古文書を読み、書き物をし、時々窓辺に立って外を見ている。五百年の習慣なのだろう。眠らなくても長時間活動できる身体が、夜を長くしている。リュカが「旦那様は三日寝なくても平気っすよ」と言っていた。
リーリエは扉に手をかけた。木の感触が冷たい。夜の城は昼とは別の生き物のようで、壁の石が冷気を放ち、廊下の空気が重く沈んでいる。
迷った。
自分からカインを訪ねるのは初めてだった。いつもカインが来る。花茶を持って。食事を知らせに。「外に出るな」と命令しに。「眠れ」と叱りに。リーリエのほうから出向いたことは——一度もなかった。
けれど今夜は、聞きたいことがあった。答えが欲しかった。自分一人では出せない答えが。
扉を叩いた。
「……入れ」
扉を開けると、カインが机に向かっていた。古文書が広げられ、蝋燭の灯りが揺れている。影が壁に大きく伸びて、執務室が実際より広く見えた。リーリエが入ってきたのを見て、カインが目を丸くした。
「珍しいな。お前から来るとは」
「……聞きたいことがあります」
「何だ」
カインが椅子を引いて勧めた。リーリエは座らなかった。立ったまま、カインの深紅の瞳を見つめた。暖炉の火が二人の間で揺れ、影が壁の上で不規則に動いている。外では風が窓を叩き、冬の夜の冷気が隙間から忍び込んでいた。蝋燭の光が瞳の中で揺れている。
「私は、戻るべきなのでしょうか」
カインの手が止まった。
「結界が弱まっています。人が苦しんでいます。子供が行方不明になっています。私が教会に戻れば、結界は安定して、被害は止まるのでしょう」
「リーリエ」
「使者が言った数字は嘘ではないはずです。百三十人の被害者。数は増えている。私がここにいる間も——」
「お前は誰のものでもない」
カインが即答した。
椅子から立ち上がり、リーリエの前に立った。リーリエの顔を見下ろしている。近い。蝋燭の灯りの中で、カインの深紅の瞳がリーリエの薄い青紫の瞳を映している。
「教会のものでも、世界のものでもない。お前の命はお前のものだ。誰かのために使い潰すものじゃない」
「……でも、人が苦しんでいます」
「だからお前が犠牲になっていいとはならない」
「一人の犠牲で百三十人が——」
「その論理は、お前を殺すための理屈だ」
カインの声が鋭くなった。けれど怒りはリーリエに向いていなかった。論理そのものに向いていた。
「教会はそう言って、何代もの聖女を潰してきた。『一人の犠牲で万人を救う』。聞こえはいい。けれど犠牲にされるのは、いつも同じ立場の人間だ。選べない立場の、逃げられない立場の人間だ。天秤を持っているのは、犠牲になる側ではなく——犠牲にする側だ」
リーリエは黙って聞いていた。カインの声が低く響き、石壁に吸い込まれていく。その言葉が、胸の中の何かに触れた。
「お前には選ぶ権利がある。戻るも残るも、お前が決めることだ。俺が強制する権利もない。教会にも、世界にも、その権利はない」
「……あなたは——」
言いかけた言葉が、唇の端で止まった。「あなたはどうなのですか」と聞こうとした。教会が軍勢を送っても、使者の冷たい数字を突きつけられても、それでもリーリエを帰さないと言い続けるあなたは——何を背負っているのですか。
「俺は、お前に死んでほしくない」
短い言葉だった。飾りがなかった。理屈もなかった。蝋燭の炎が揺れ、カインの影が壁の上で大きく震えた。声の温度が——熱かった。怒りの熱ではなく、もっと切実な、祈りに似た熱。
「それだけだ」
短い。余計な言葉が何もない。教会の長い演説とは正反対の。けれどその「それだけ」の三文字に、五百年分の重みが詰まっていた。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁に伸びている。影が重なりかけて、離れた。蝋の燃える匂いが鼻先を掠め、古い羊皮紙の匂いと混じり合っている。
リーリエはカインの目を見つめた。深紅の瞳。五百年の重みがある瞳。けれど今そこにあるのは——シンプルな願いだった。
死んでほしくない。
窓の外を風が叩き、枯葉が舞い上がるのが見えた。暖炉の火が揺れ、部屋の影が一斉に動いた。教会は「世界のために」とリーリエの帰還を求めた。大司教は「均衡のために」と言った。使者は「被害者のために」と数字を並べた。
カインは「俺はお前に死んでほしくない」と言った。
世界のためでも、均衡のためでもなく。ただ——リーリエに生きていてほしい。その願いだけが、真っ直ぐにリーリエに向けられていた。
「……すぐには、答えが出ません」
「急がなくていい」
「教会のことも、結界のことも——」
「俺が考える。お前は考えなくていい」
「それは——あなたの癖ですね。全部一人で背負おうとする」
カインが言葉に詰まった。リーリエに言い返せない。二日連続で言い負かされている。五百年の魔王が。
リーリエは自室に戻った。部屋の窓辺に、リュカが描いた絵が飾ってある。庭の風景画。ヴェルナーが「額を作りましたぞ」と言って、木製の小さな額に入れてくれた。
カインの言葉を反芻した。
「お前は誰のものでもない」。
教会は「聖女は世界のもの」と言った。カインは「お前のもの」と言った。
どちらが正しいのかは、まだわからない。
けれどカインの言葉が——温かかった。
窓の外で星が瞬いている。フェアシュテルン——冬の女王座。
「……誰のものでもない」
呟いた。その言葉はまだ完全には自分のものになっていない。けれど——種は蒔かれた。
いつか芽を出す日が来るかもしれない。
今はただ——星が綺麗だった。冬の女王座が空の高い位置で弧を描き、旅人の道標が地平線近くで橙色に光っている。カインが教えてくれた星の名前。リーリエが覚えた星の名前。
窓を閉めた。冷たいガラスに指先が触れ、結露の水滴が指を濡らした。星の光が遮られ、部屋が暗くなった。けれど瞼の裏には、星の残像がまだ瞬いていた。




