天秤の上の命
百三十人の命と、私一人の気持ち。
部屋の空気が重い。窓を閉めたまま座っているからだろうか。あるいは、胸の上に乗っている見えない重さのせいか。呼吸をするたびに、肋骨の内側が圧迫される感覚がある。
天秤にかければ——答えは出ている。
リーリエは自室の寝台に座り、膝の上に両手を置いていた。日が傾き、窓から差し込む光が橙色に変わっている。壁にかけられたリュカの絵が、夕日を受けて温かい色に染まっている。庭の花を描いたもの。下手だけれど、色使いだけは綺麗だ。
使者が去って二日が経った。けれど数字が頭から離れない。
百三十人。
二十七人が魔物に襲われた。村が一つ壊滅した。漁船が沈んだ。子供が行方不明になった。水源が汚染された。
そして使者は言った。「数字は増え続けます」と。冷たい笑みの奥から。
今この瞬間にも、どこかで誰かが苦しんでいるのかもしれない。結界が弱まり、守られるはずだった人々が守られなくなっている。
その原因が——自分だとしたら。
「百三十人の命と、私一人の気持ち。天秤にかければ……答えは出ている」
声に出した。声に出すと、より冷たく、より明確に響いた。
大司教と同じ論理だ。気づいて、リーリエは背筋が冷えた。窓の外で風が鳴っている。冬の風だ。枯れ枝を揺らし、窓ガラスを叩く硬い風。
一人の犠牲で万人が救われるなら、それは正しい。聖女一人が苦痛に耐えれば、世界中の人々が平穏に暮らせる。合理的だ。論理的だ。反論の余地がない。
教会ではいつもそう教えられた。「あなたの犠牲は尊い」「あなたのおかげで世界は守られている」「聖女であることは祝福です」。祝福。その言葉の重さを、教会の人間は知らない。
リーリエは目を閉じた。暗闇の中で、左胸の紋章が微かに脈打っている。結界に命を送り続ける鈍い鼓動。この音を聞くたびに——自分が「燃料」であることを思い出す。
教会での日々を思い出す。
記憶が鮮明に蘇った。地下の空気。蝋燭の煤の匂い。石の壁を伝う水滴の音。冷たい石の祭壇。白い聖衣。結界の力が身体を通り抜けるたびに、骨の髄まで灼かれるような痛み。声を上げたくなる。けれど声を上げれば「弱い聖女」になる。だから唇を噛み、拳を握り、耐えた。
朝、目が覚めると痛みがある。夜、眠りに落ちる直前まで痛みがある。夢の中でも痛みが追いかけてくる。痛みのない瞬間が、一秒たりとも存在しなかった。
冷たい部屋。薄い毛布。窓のない石壁。「聖女は清浄な環境で」と言いながら、実際には誰も訪ねてこない独房だった。食事は一人。祈りは一人。痛みも一人。
あの日々に——戻る。
リーリエの指が、膝の上で握りしめられた。
爪が掌に食い込み、小さな痛みが走る。けれどその痛みは、胸の灼熱に比べれば取るに足りない。取るに足りないのに——今日は、この小さな痛みのほうがはっきりと感じられた。
戻れば百三十人が救われる。これから増え続ける被害者が救われる。世界が守られる。
その代わりに——花茶の匂いを忘れる。星の名前を忘れる。リュカの笑顔を忘れる。フィルの温かい手を忘れる。マリカの涙を忘れる。
カインの声を——忘れる。
いや、忘れないだろう。教会に戻っても、あの深紅の瞳は忘れない。指先に残るカインの手の温もりも。「手放したくない」と言った声は忘れない。忘れないまま、あの痛みの中で——
天秤が揺れた。
百三十人の命。花の名前。星の名前。カインの茶。リュカの笑顔。マリカの涙。フィルの温もり。
比較にならない。百三十人のほうが重い。当然だ。一人の気持ちより、百三十人の命のほうが重い。
けれど。
リーリエは手を開いた。掌を見つめた。カインの傷を治した手。フィルの頭を撫でた手。
「……私は、こんなに迷うようになったのですね」
以前の自分なら迷わなかった。「どうでもいい」で終わっていた。教会に戻れと言われれば、「どうぞ」と答えた。自分の命に価値がなかったから。自分の気持ちに重さがなかったから。天秤に載せるものが何もなかったから。
今は——迷っている。
窓辺に立ち、冷たいガラスに額を押しつけた。ガラスの向こうに庭が見える。カインが植えた花が、冬の入り口でまだ咲いている。
天秤の片方に、確かな重さがある。取るに足りない、塵のような重さだ。百三十人の命に比べれば、なんてことのない重さだ。
けれどその塵が——リーリエにとっては、初めて手にしたものだった。生まれてから十七年、何も持たずに生きてきた自分が、初めて手にした重さ。
窓の外で、夕日が沈んでいった。部屋が暗くなる。リーリエは明かりをつけず、闇の中に座っていた。壁のリュカの絵が影に沈み、見えなくなった。机の上の花の髪飾りも、闇に溶けた。どちらも——リーリエがこの場所で手に入れたものだ。暗闇の中でも、あることはわかっている。見えなくても——ある。
「……答えは出ている」
呟いた。けれど立ち上がれなかった。
答えは出ているのに、身体が動かない。足が重い。手が動かない。まるで見えない鎖で椅子に繋がれているように——いや、鎖ではない。自分の意志が、自分を引き留めている。
廊下から足音が聞こえた。フィルの足音だ。小さくて軽い。
「お姉ちゃーん! ご飯だって! リュカがハンバーグ作ったの! お姉ちゃんの好きなやつ!」
扉の向こうで、フィルが叫んでいる。
リーリエの好きなもの。いつの間にか、好きなものができていた。リュカの作るハンバーグ。煮込んだソースが柔らかくて、パンに合う。初めて食べたとき、「美味しいです」と言った。リュカが「もっと食ってくださいよお嬢!」と笑って、二個目を皿に載せた。
好きなものがある。
以前は何もなかった。食事は教会が出すものを機械的に口に運んでいた。味はわかったが、「好き」や「嫌い」を感じるだけの感情が残っていなかった。
今は——ハンバーグが好きだ。花茶が好きだ。マリカの果実のスープが好きだ。
好きなものがあるということは——失いたくないものがあるということだ。
「……今行きます」
リーリエは立ち上がった。暗い部屋を出て、フィルの手を取った。温かい手だった。
答えは出ているはずだった。けれど足は食堂に向かっている。フィルの手を握っている。
迷っている。けれど迷えること自体が——大きな変化の証なのだと、まだ気づけないまま。




