世界の均衡
使者は去ったが、言葉は残った。
百三十人。その重い数字が頭の中で鐘のように鳴り続けている。眠っても覚めても、数字が追いかけてくる。食事のとき、スプーンを口に運ぶたびに——百三十人の中に、食事ができない人がいるのではないかと考えてしまう。
翌日も、フェルディナントが再び門前に立った。今度は書類ではなく、口頭で。白い法衣が朝日に照らされ、眩しいほどに白い。
「大司教猊下からのお言葉を預かっております」
カインとリーリエが城壁の上から見下ろしていた。冬の風が二人の間を通り抜ける。フェルディナントは一人、門の前に立っている。護衛もなく、武装もなく。その無防備さが逆に——教会の自信を示している。
「『世界の均衡のために、聖女は本来の場所に戻るべきだ。それが聖女の使命であり、世界を支える柱としての責務である』」
柱。
リーリエの耳が、その一語に引っかかった。身体が微かに強張った。
大司教は聖女を「柱」と呼んだ。建物を支える柱。抜けば建物が崩れる柱。取り替え可能で、ただそこに立っていればいい柱。
教会にいた頃も感じていた。自分は「人間」ではなく「機能」として扱われている。崇められているように見えて、実際は利用されている。「尊い」と「便利」は、教会の言葉では同義だった。
「……柱」
その一語が口の中で転がった。冷たく、硬く、角がある言葉。飲み込もうとすると喉が痛む。
呟いた。風が言葉を攫っていく。
カインの気配が変わった。
静かだった。聖騎士団との戦闘のときのような爆発的な怒りではない。もっと深い。もっと冷たい。地の底から湧き上がるような——重い怒り。氷の下で燃える火のような。
「帰れ。今すぐに」
カインの声は低く、城壁が震えるかと思うほどだった。空気が重くなった。リーリエの肌がぴりぴりと痺れるのを感じた。カインの魔力が、怒りに呼応して溢れ出している。空気が凍りついた。フェルディナントの法衣の裾が、風もないのに揺れた——カインの魔力の余波だ。
「お前の主人に伝えろ——リーリエは道具ではない」
窓の外で風が唸り、ガラスが微かに軋んだ。暖炉の炎が一瞬大きく揺れ、部屋中の影が一斉に動いた。フェルディナントの顔から、初めて笑みが消えた。カインの放つ気配に、顔色が変わっている。作り笑いを維持できないほどの重圧。
「使命でも責務でもない。あいつの命はあいつのものだ。『柱』でも『均衡』でもない。名前がある。リーリエという名前がある。お前たちが忘れても、俺は忘れない」
リーリエは隣で、息を止めて聞いていた。
カインの怒りは——リーリエのためだった。「柱」と呼ばれたことに。「均衡」の道具にされることに。名前ではなく機能で呼ばれることに。
カインが怒っている。リーリエの尊厳を踏みにじる言葉に。リーリエの代わりに。
「……大司教猊下にそのままお伝えします」
フェルディナントが一礼し、背を向けた。今度は足早に——ほとんど走るように去っていった。カインの気配に当てられたのだろう。外交官の仮面が、魔王の怒気で剥がれた。
門が閉じた。
カインが息を吐いた。怒りを収める深い呼吸。肩の力が抜け、いつもの無表情に戻っていく。
「あいつの言葉は気にするな」
昨日と同じことを言った。窓の外で風が木の枝を揺らし、乾いた音が響いた。冬の陽光が薄く差し込み、フェルディナントの白い法衣を照らしている。その白さが、教会の祭壇を思い出させた。
「……ええ」
リーリエも同じように答えた。
けれど。
城壁を降り、窓辺に座った。フェルディナントの白い法衣が遠ざかっていくのが見える。教会の使者。大司教の代弁者。
「柱」「均衡」「使命」「責務」。
大司教の言葉が頭を巡る。聖女を「人」として見ていない冷たさが、言葉の端々に滲んでいた。教会にいた頃は気づかなかった——いや、気づいていたのに、気にするだけの感情が残っていなかった。「柱」と呼ばれても何も感じなかった。そうですか、と受け入れていた。
今は違う。
「柱」と呼ばれたことが——少し、嫌だった。
嫌だと感じている。胸の奥で紋章が疼き、結界の鈍痛がいつもより鋭く感じられた。自分は柱なのか。機能なのか。道具なのか。
カインは「道具ではない」と言った。「名前がある」と言った。
教会は「柱」と呼ぶ。カインは「リーリエ」と呼ぶ。
どちらが正しいのかは、まだわからない。
けれど——カインの言葉のほうが、温かかった。
使者の言葉は棘のように胸に残っている。 引き抜こうとすると余計に深く刺さる。棘の先端に塗られた毒のように、ゆっくりと、けれど確実に効いてくる。百三十名。均衡。柱。数字は増え続ける。抜きたくても抜けない棘だ。
リーリエは部屋に戻り、窓辺に座った。窓の外では雲が流れている。秋の空は高く、遠く、どこまでも続いている。
教会にいた頃、窓のない部屋で暮らしていた。空を見上げることすらできなかった。ここに来てから、空がこんなに広いものだと知った。星がこんなに多いものだと知った。
それも全て——ここにいるからだ。
けれど百三十人。
数字と記憶が天秤の上で揺れている。教会の冷たさと、この城の温かさ。大司教の「柱」と、カインの「リーリエ」。
カインが来た。足音でわかった。重く、けれど静かな足音。扉を叩かず、廊下に立ち止まる気配。入っていいかどうか迷っているのだ。この人はいつも、リーリエの領域に踏み込むときだけ躊躇する。戦場では一切躊躇しないくせに。
「入って構いません」
声をかけると、扉が開いた。カインが入ってきて、窓辺のリーリエの隣に——少し離れて座った。リーリエの肩と、カインの肩の間に、拳一つ分の隙間がある。その距離が——ちょうどいいと思った。近すぎず、遠すぎない。
何も言わなかった。二人とも。風の音だけが窓から入ってきて、リーリエの髪を揺らした。
リーリエは「ありがとうございます」とも「大丈夫です」とも言わなかった。
ただ隣にいることを——許した。
風が窓から入り、リーリエの髪を揺らした。カインの外套の裾が同じ風に揺れる。同じ空気を吸い、同じ沈黙の中にいる。
窓の外で、一羽の鳥が鳴いた。秋の終わりに残った最後の鳥の声が、冷えた空気を震わせた。
それが今のリーリエにできる、精一杯の返答だった。声は震えていたが、目は逸らさなかった。




