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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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教会の使者

 使者は、聖騎士ではなかった。


 朝、ヴェルナーが書庫に報告に来た。「教会から使者が一名。武装はしていません。旗は白——対話を求めています」


 カインが眉をひそめた。深紅の瞳が冷たく細められた。


「……一人か」


「はい。法衣姿の男性です。聖騎士団ではなく、外交官のようですな。名をフェルディナントと名乗っています」


 武力で駄目ならば、次は知恵で来る。力で倒せないなら、言葉で崩す。教会はそういう組織だ。カインは知っていた。五百年前から何も変わっていない。剣で勝てなければ、筆と舌で戦う。


「通せ。ただし武器検査をしろ」


「承知しました」


「リーリエも同席させる」


 ヴェルナーが微かに眉を上げた。


「旦那様、聖女殿を——」


「もうこれ以上隠す段階じゃない。あいつは自分に関わることを知る権利がある。俺の判断で遮っていいことじゃない」


 ヴェルナーが頷いた。


 使者が城内に通された。応接室の石壁に蝋燭の灯りが揺れ、窓から差す冬の弱い光が床に長い四角形を描いている。


 応接室の椅子に座った男は、白い法衣を纏った痩せた中年だった。五十代ほどに見えるが、目だけが若い——いや、冷たい。穏やかな笑みを浮かべているが、笑みが目に届いていない。リーリエは一目で見抜いた。教会にはこういう顔の人間が多かった。


「魔王カイン様。このたびは対話の機会をいただき、感謝いたします。教会の使者として参りました。名はフェルディナント」


 丁寧な口調。洗練された物腰。言葉の一つ一つが計算されている。声の抑揚すら調律されたように均一で、聞く者の警戒心を解くために設計された話し方だった。教会の外交官——言葉を武器にする者。剣より鋭い刃を、微笑みの裏に隠している。


 リーリエは教会にいた頃、こういう人間を何度か見たことがあった。大司教の側近たち。笑みを絶やさず、声を荒げず、しかし一度も温かみのない言葉を投げかけてきた人々。


 蝋燭の炎が揺れ、壁に映る影が大きくうねった。応接室の空気が重い。使者の香水の匂いと、古い石壁の湿った匂いが混じり合っている。


「長い前置きはいい。用件を言え」


「では単刀直入に」


 フェルディナントが懐から書類を取り出した。几帳面に封をされた羊皮紙を広げ、机の上に置く。教会の紋章が押された正式な文書だ。


「聖女の不在が、世界にどのような影響を及ぼしているか——具体的な数字をお持ちしました」


 リーリエは部屋の隅の椅子に座っていた。カインが「同席しろ」と言ったので、聞いている。フェルディナントの視線がリーリエに移った。一瞬だけ。品定めするような目。こちらの反応を測っている。そしてすぐにカインに戻る。手慣れた外交官だ。


「結界の弱体化により、北方で二十七名が魔物に襲われました。うち三名が重傷。命に別状はありませんが、後遺症が残る可能性があります。東部で村が一つ壊滅しました。住民百二十名が避難を余儀なくされ、家屋と農地は全滅です」


 数字が淡々と並べられる。フェルディナントの声は穏やかで、感情がない。数字を読み上げる声。けれどその数字の一つ一つが、生きた人間の苦しみを表している。


「南方の嵐で漁船が三隻沈没。乗組員は救助されましたが、二名が行方不明のままです。西部では水源が汚染され、三つの村が飲料水の確保に困難を来しています」


 リーリエは息を呑んだ。報告書で見た数字より遥かに多い。椅子の背もたれを握る手に力が入った。指先が白くなる。


 フェルディナントが懐から薄い冊子を取り出した。上質な紙に細かい文字が並んでいる。数字と地名の羅列。乾いたインクの匂いがした。


「この二ヶ月で、結界の弱体化に起因する被害者は百三十名を超えています」


 百三十名。


 報告書で見た数字より遥かに多い。ヴェルナーの報告は一部だったのだ。教会の情報網は世界規模だ。カインの城で把握できるのは氷山の一角にすぎない。


「これらの被害は、聖女の不在と直接的に関連しています」


 フェルディナントの声は穏やかだった。穏やかなのに——刃のように鋭かった。笑みを浮かべたまま、人の心を切り刻む。


「聖女がお戻りになれば、結界は安定します。これ以上の被害は防げます」


 カインが口を開いた。


「聖女は帰さない」


「それは聖女自身が決めることでは?」


 窓の外で鴉が鳴き、その声が石壁に反響して消えた。


 フェルディナントの視線が、リーリエに向いた。冷たい目だった。穏やかな笑みの奥に、計算がある。リーリエの罪悪感を突こうとしている。


 わかっている。わかっていても——数字は、重い。


「聖女様。百三十名の被害者は、今この瞬間も増えています。あなたのご決断が、多くの命を救います」


 リーリエは口を開きかけた。何か答えなければ。けれど——言葉が出なかった。頭の中で数字が回っている。百三十。百三十。百三十。


「聞こえなかったか。聖女は帰さない」


 カインが遮った。椅子から立ち上がり、フェルディナントの前に立つ。深紅の瞳が冷たく光った。


「用件は聞いた。答えは変わらない。帰れ」


 カインの声は平坦だった。けれどその平坦さの下に、押し殺した怒りがある。リーリエにはわかった。この人は百三十人の被害者のことを知らなかったわけではない。知っていて、それでもリーリエを帰さないと言っている。その重さを、カインは一人で背負おうとしている。


 フェルディナントが笑みを崩さないまま、書類を畳んだ。立ち上がり、一礼する。


「……承知しました。大司教猊下にそのままお伝えいたします」


 扉に向かいながら、振り返らずに言った。


「ただ一つ、お伝えしておきます。数字は増え続けます。それだけは——事実です」


 扉が閉まった。


 部屋に沈黙が落ちた。カインが椅子に腰を下ろし、額を手で押さえた。指の間から見える深紅の瞳が、疲れていた。


「あいつの言葉は気にするな」


「……ええ」


 リーリエは頷いた。


 けれど百三十という数字が、頭の中で鳴り止まなかった。フェルディナントの冷たい目が、まぶたの裏に焼きついていた。穏やかな笑みの裏にあった計算。人の命を数字に変換し、その数字をリーリエの罪悪感に変換する——そういう技術に長けた目だった。


 窓の外で風が鳴った。秋の終わりの風。冬の足音を連れてくる風。リーリエは腕を自分の身体に巻きつけた。寒いわけではない。ただ——何かにしがみつきたかった。


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